ミラクルナイト☆第204話
水都女学院高校──十月の昼下がり
秋風の匂いを含んだ風が、教室のカーテンを柔らかく揺らしていた。
昼休みの教室は、明るく、穏やかで、そして、静かだった。
「……」
窓際の席に座る野宮奈理子は、開いたお弁当箱に手を付けず、ただじっと空を見上げていた。
白い肌に水色の制服。どこから見ても絵に描いたような“純白の天使”。
だが、その横顔はどこか翳りを帯び、頬には薄く影が落ちている。周囲のざわめきの中でも、彼女の存在だけが淡く色を抜かれているようだった。
「奈理子さん、体調悪いの?」
声をかけてきたのは、クラスメイトの菜々美だった。普段は少し鼻につく態度をとる彼女も、今日の奈理子の様子には何か感じ取ったようだ。
「ううん……ごめんなさい。ちょっと寝不足で」
奈理子は微笑んでみせた。だがその笑みは、あまりにも脆く、作り物のようだった。
「最近、元気ないよ。昨日だって、ホームルーム中ずっとノートに“花の名前”を……」
すみれが心配そうに奈理子の顔を覗き込んだ。
「……え?」
奈理子はふと、自分のノートを開く。そこには、自分でも書いた記憶のない“ツルバナ”“黒文字”“香”“蔓”“星痕”といった言葉が走り書きされていた。
「これ、私……が?」
何の脈絡もなく、ただ無意識に書かれたものだろうか。
「最近、よくあるの……記憶が飛ぶの。夢と現実の境目が曖昧で、気づいたら時間が過ぎてて……」
まるで、誰かに自分の意識を少しずつ削られているような感覚。
──あの時の、あの“温室の香り”が鼻腔の奥で蘇った。
「ふふ、そんなこと言って、またどこかでデートしてたんじゃないの?」
菜々美がからかうように笑った。
「……ううん、違うの」
奈理子は首を振った。
「私……なんだか最近、“本当の自分”がどこかに置いてきぼりになってるような気がするの」
菜々美は不思議そうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
──昼休みが終わり、鐘が鳴る。
生徒たちは次の授業の準備に取りかかるが、奈理子だけは自分の席に座ったまま、窓の外を見つめていた。
空に浮かぶ白い雲が、ふと、花のように見えた。
「……私、壊れてきてるのかな」
思わず口からこぼれた言葉に、自分でハッとする。
彼女の心の中には、ツルバナ女の囁き、コウイカクロモジの幻、ヒトデカズラの触手の感触が、未だ残響のようにこびりついている。
彼女はそれを“夢”と呼んでやり過ごしていたが──現実との境界線が、少しずつ曖昧になり始めていた。
水都女学院高校──放課後の教室
放課後。
いつもなら誰かが残っておしゃべりしている教室も、今日は珍しく静まり返っていた。
奈理子はひとり、机に突っ伏していた。制服の襟元にはまだ午後の日差しが差し込んでいるが、その光さえも、彼女にとってはどこか遠い異国のもののようだった。
──カサ…
風もないのに、どこかで紙が擦れるような音がした。
「……え?」
机から顔を上げると、教室には誰もいない。
カーテンは動かず、空気は静止しているはずなのに──音が、聞こえる。
──サラ… サララ…
まただ。誰かが黒板を爪で撫でているような、乾いた音。
奈理子は立ち上がった。
足元が、少しだけ、揺れる。
──ぱたん。
突然、教室の隅のロッカーが勝手に開いた。
「……!」
誰もいないはずの空間に、“何か”がいる。
咄嗟に後ずさる奈理子。その足元に、何かが落ちているのを見つけた。
──白い花弁。
見覚えがある。あの“幻想の温室”で見た、形容しがたい異形の植物の花。
(嘘……ここは、現実のはずなのに……)
その瞬間だった。
耳元に、誰かの囁きが──
「だいじょうぶよ、奈理子……。ここはあなたのための場所……あなたはもう、誰にも否定されない……」
甘く、優しい。しかしそれは、奈理子の心の脆さにつけこむような“毒”だった。
奈理子の視界が揺れる。教室の壁が、ゆっくりと花の蔓に包まれていく。机は溶けて、床は水草のように波打つ──
「……やめて……ここは……学校、のはず……!」
足元から伸びてきた蔓が、彼女の足首に絡みつこうとする。
そのとき──
「……!」
奈理子は、自分のスカートの裾を強く握りしめた。
(私は……負けない。何度だって、ここに戻ってくる)
「ミラクルナイトは……こんなところで、壊れたりしない……!」
その言葉と同時に──ふっ、と幻影は霧散した。
教室は元通り。
ロッカーは閉じられ、蔓などどこにもなく、彼女の制服の裾だけがぐしゃりと握られている。
奈理子は膝をつきながらも、荒く息をついていた。
「……また、だった……」
“幻の残滓”──あの展示室で受けた精神干渉の影響が、まだ彼女の中に残っている。
“見えない毒”は、心の奥にしつこく根を張っている。
しかし──
それでも彼女は、ゆっくりと立ち上がる。
「……ミラクルナイトは、諦めないの……」
それは震える声だったが、確かに彼女の中に生きていた。
夕暮れ、水都公園。遊歩道。
セミの声はとっくに止み、吹く風に金木犀の香が混じる十月の夕暮れ。
だがその香りに、奈理子はどこか、言い知れぬ違和感を覚えていた。
「……なんだろう、この匂い……」
帰宅途中、制服姿のまま水都公園の遊歩道を歩く奈理子。
いつものように寄り道をして、噴水広場を横目にベンチ沿いの小道へと入る。
ふと、胸元を押さえた。心臓が、不規則に脈打っていた。
それは暑さのせいではなかった。汗も出ていない。
ただ、どこか……甘く、鼻を擽るような、けれど明らかに“自然でない”香りが、
髪をすり抜け、制服の生地に染み込んでくるようだった。
「(さっきの図書室でも……階段下でも……この香り、してた気がする)」
目を凝らせば、茂みの奥の影が一瞬動いた気がした。
だが振り返ったその先には、誰の姿もなかった。
「怖いこと考えすぎだよ、私……はは……」
自分に言い聞かせるように笑う。
でも次の瞬間、視界の端に──白い何かが、地面をすべるように走った。
奈理子は立ち止まり、辺りを見回す。
……誰もいない。子供もいない。犬の散歩の姿もない。
夕暮れの遊歩道は、まるで世界から切り離されたように静かだった。
「……うそ、まただ……っ」
目の前の遊歩道が、濡れていた。
アスファルトの舗装の上に、いつの間にか水が張り、
まるで底のない鏡のように、彼女自身の姿が揺れて映っている。
「(こんな……こと、あるはずないのに……)」
水面に映る自分の影が、微かに──笑った。
「やめて……っ」
息を呑み、一歩後ずさると……視界が歪む。
世界の色が灰に沈み、風が止まり、音が遠ざかる。
──やがて、静寂の中に声が降る。
「奈理子さん。そんな顔、あなたらしくないですよ」
振り返ると、そこには誰もいない。
けれど、確かに、誰かの気配があった。
追いかけてきてくれるはずの声。
いつもなら、そこにドリームキャンディの凜々しい声が、
あるいはセイクリッドウインドの落ち着いた気配があるはずだった。
だが──いない。
「……みんな、どこ……っ」
足元の水面が、ぶくりと泡立つ。
そこから伸びてくる白い触手のような影が、彼女の足首にそっと絡みつく。
「ひっ……やめて……!」
跳ねのけようとしても身体が重く、喉がきしむ。
意識が、徐々に霞んでいく。眠気ではない。“溶けていく”感覚。
──ふと、制服のスカーフがひとりでに解け、風もないのにひらりと舞った。
「やだ……やだ、こんなの……っ」
どこかでクスクスと笑う声。
それは、奈理子自身の声にそっくりだった。
「あなたは……もう“守られる側”じゃないの」
「戦いに疲れたなら、眠ってもいいのよ」
制服の袖が花弁のように柔らかくなり、
指先から感覚が抜けていく。
自分の“輪郭”が曖昧になっていくのが、怖かった。
「……助けて……っ……誰か……!」
必死に声をあげたそのとき──
──しかし、返ってくる声はない。
ドリームキャンディも、セイクリッドウインドも、いない。
助けは来ない。
今度こそ、誰も──来てはくれないのだ。
──空が割れて落ちてくる。
その瞬間、奈理子は自分がどこにいるのか、誰であるのかを一瞬見失った。
水色のセーラー服はゆっくりと崩れ、花びらのように舞い散っていく。
浮かび上がる素肌。露わになった白いショーツの上に、
黒く煙る蔓のようなものが絡みつき、するすると腹部へと這い上がっていた。
「いや……やだ……お願い……っ……」
制服の残滓がひらひらと舞いながら消える中、
“誰か”が囁く。
「あなたはもう、ヒロインでいなくていいのよ」
「守るために戦うなんて、誰も望んでいない……」
耳元で、コウイカクロモジの中性的な声が重なる。
「もっと、素直になって。疲れてるんでしょう?
戦わなくてもいいよ。奈理子さん。ねえ、優しくしてあげる──」
その声はまるで、恋人のように優しく、どこか壊れていた。
……そのとき、奈理子の目に、一筋の“光”が走った。
──それは、自分が変身したあの日のこと。
見上げる空。
差し出された手。
ドリームキャンディの声。
セイクリッドウインドの温かい眼差し。
ファンの子供たちの笑顔。
弟・隆の、無言の信頼。
「……あたし……」
喉の奥から、何かが込み上げてきた。
恐怖、羞恥、自己否定……
けれど、それでも踏み出したいという衝動。
そう。それが“奈理子”の強さ。
「──あたしは、ミラクルナイトよ……!」
震える声で、奈理子が言った。
それは、まるで呪文のように空気を変える。
「たとえ……怖くても……
たとえ……ひとりぼっちでも……
でも、見てる人がいる。応援してくれてる人が……
あたしは、あたしを裏切らない……!」
光が走る。
制服の残骸が一瞬で蒸発するように飛び散り、
その身体に、白と水色の光のコスチュームが再構築されていく。
──奇跡の翼、再臨。
「ミラクル・チェーーンジッ!」
ぴしぃっという音とともに、蔓のような幻覚が弾け飛ぶ。
ひらりと靡く、白いプリーツスカート。
生脚を包む聖なる光。
“ミラクルナイト”が、再び立った。
「今ここに、奇跡を届ける──ミラクルナイト、参上ですっ!」
だが、その瞬間、地面が泡立った。
「ふふ……いいところで変身したネ、奈理子ちゃん……」
ずるりと現れる複数の影。
ウズムシ男、四体──
「きゃっ……っ!また……来たの……!?」
顔を引きつらせながらも、ミラクルナイトは変身後の身構えを取る。
しかしその指は僅かに震えていた。
「ねぇ、ミラクルナイトぉ。オレたちのこと、忘れてもらっちゃ困るヨ?」
「今日こそ、ゆっくり遊んでもらうヨ~~~ン!」
ひゅん!と分裂し、全方位から囲んでくる。
──完全に、奈理子ひとりだった。
けれど──ミラクルナイトは、目を伏せず、ひとつ深呼吸した。
「大丈夫。あたし……もう、逃げない」
ドン! と着地した足の裏が地面を鳴らす。
「さあ来なさい、ウズムシ男!覚悟しなさい!」
ウズムシ男たちは、一瞬たじろいだ。
その姿は確かに怯え、細くて、か弱そうだった。
けれど、背筋を伸ばして白いスカートを翻し、
彼女は確かにそこに“ヒロイン”として立っていた。
──奇跡は、いつも恐怖の中から生まれる。
「ミラクルナイトちゃん……今日はゆっくりイジメさせてもらうヨ〜?」
にゅるり、と地面から滲み出すように現れるウズムシ男の4体。
ぬらり、ずるり、と身をよじらせ、
ミラクルナイトを囲むように、滑るように迫ってくる。
「やだ……くる……っ!」
スカートの裾がわずかに揺れ、ミラクルナイトの足がすくむ。
けれど──
「ミラクルステップ!」
跳ねるように、ミラクルナイトの身体が地面を蹴った。
ブーツが舞い、白く光る蹴りがウズムシ男の1体を直撃──
「ぐべえッ!?」
奇妙な声とともに、その身体がぐにゃりと吹き飛ぶ……が、
「残念、分裂しちゃうよ〜ん!」
ぱんっ、と粘膜が弾け、
吹き飛ばされたウズムシ男が二体に分かれて地面に着地する。
「っ……増えてる……!」
「ミラクルナイトちゃん、知らないの?オレたち、叩くと“ふえる”ヨ?」
ずる、ずるるっ──粘液を撒き散らしながら、
背後から、前方から、ミラクルナイトの白いスカートめがけて一斉に襲いかかる!
「キャァッ!」
スカートを捲られながらも、ブーツのかかとを滑らせ後方に跳ぶ。
しかし、地面の粘液で着地に失敗──
「うっ……!」
足を滑らせ、ミラクルナイトは地面に尻もちをつく。
生脚に冷たい粘液がまとわりつく感触に、ゾクリと背筋が震えた。
「やっぱりヒロインはこうでなくちゃネ〜!」
「すべすべのおみ足〜〜いいねいいね〜!」
「パンツ丸見え~、次はその中身が見えるとイイナ〜〜!」
「や、やめてよ……!」
震えながらも、ミラクルナイトの両手が光を生む。
その瞳はまだ潤みながら、それでも逃げない──
「ミラクル・アクアティックラプチャー……っ!」
両手から放たれた水のオーラが、うねりながら前方の2体を包み込む!
「ちょ、ちょっと待って──」
「アチャー!アツッ!?」
パチン、と音を立てて包み込まれた2体が、リボンの閃光の中で消滅する。
しかし──
「うわ〜ん!ミラクルナイトちゃん、やることエグいよ〜〜!!」
「でもねぇ?オレたち、まだ残ってるんだよ〜ん♡」
後方から、残りの3体が跳びかかる!
──ドスンッ!
一瞬、視界が粘液に染まる。ミラクルナイトの身体が地面に押し倒され、
白いスカートの中にまでウズムシ男の腕が絡みつき、奈理子のショーツを掴んだ!
「いやぁっ!!来ないでぇっ!!触らないでぇっ!!脱がさないでぇっ!!」
身体をひねり、脚をばたつかせ、泣き叫ぶミラクルナイト。
──だがその目には、涙の奥に確かな光があった。
「ミラクル・パワァ……っ!」
回転とともに、体から迸る清浄な風。
光の渦が、ミラクルナイトを包むように広がる!
「ぬぉぉぉおお!?目が、目がぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
3体すべてが巻き込まれ、ぴしぃっと光の閃光の中で消し飛ばされた──
──しん、と静寂が戻る。
ミラクルナイトは地面に手をついたまま、肩で息をしていた。
白いコスチュームには、まだ数滴の粘液が残っていたが、
彼女の姿はどこまでも美しく、どこまでも誇らしかった。
「……っ、ふぅ……はぁ……」
それでも泣きそうな顔で、奈理子はゆっくりと立ち上がった。
「誰かが助けてくれなくても……
あたし……ひとりでだって、やれる……!」
心の奥底から湧き上がる熱とともに、
彼女の背にある“ミラクルウイング”が、もう一度きらりと光を放った。
──そして次の瞬間、気配を感じた。
ビルの上。
ツルバナ女とコウイカクロモジが、戦況を見届けていた。
「……完全に予定外ね。退きましょう」
ツルバナ女が舌打ちをし、コウイカクロモジが艶やかな笑みを浮かべる。
「やっぱり……美しい人は、壊れないんだねぇ……」
二人の影が夜に溶けるように消え、
奈理子は、風の音の中で小さく自分に呟いた。
「まだ……終わってない……けど、今日は……勝てた、よね」
──夜の空に、ふわりと一輪の花が咲いたように、
少女は静かに、白いスカートを揺らして立ち尽くしていた。
穢川研究所・深夜の会議室──
「……負けた、わけではありません。あの娘がただ、しぶとかっただけですわ」
ツルバナ女──柚月は、蔓をたたんだ腕で机を叩いた。
艶やかな花嫁姿のような衣装も、今はわずかに皺を寄せていた。
「へえ、そういう言い方するんだ?“精神の崩壊寸前”だったのは確かだろうけど……」
壁にもたれながら、コウイカクロモジが中性的な微笑を浮かべる。
白衣の上からすでに人間態を脱ぎ、触手の先をひらひらと弄びながら。
「だが、最終的には……立ち上がった。しかも、独りで、ね」
「ええ……あのミラクルナイトとかいう娘……あれでも“市民の絶対アイドル”ですもの」
柚月の声が、ほんの少しだけ悔しさを含んで低くなる。
「中途半端に弄ぶより……いっそ、派手にやってみるのも“有り”かもしれませんわね」
「派手に……って?」
「この際、街全体を巻き込んだ“公開処刑”よ」
ふたりの視線が交差する。
そのとき、部屋のスピーカーから九頭の声が割り込んだ。
「フフ……いいね。
どうせやるなら、“市民の目の前”で、完全な敗北と屈辱を与えてやればいい。
“ミラクルナイトの価値”そのものを瓦解させる──それが本来の目的だったはずだろう?」
「……お耳が早いこと」
柚月が肩をすくめた。
「次の作戦、現場指揮は任せます。ツルバナ女、コウイカクロモジ、協力してやってくれたまえ」
「我々が奈理子に刻んだ“幻の残滓”は、確実に効いている。
でもそれ以上に、彼女を救おうとする“民衆の愛”が厄介なのさ。
それごと、潰してしまえばいい」
九頭の声は、機械のように冷静に、それでいて愉悦に満ちていた。
「どうせ市民の前に引き出すなら……お祭りがいいですわ」
「……水都・中央広場で予定されている『秋の文化パレード』……あれを利用する?」
「ええ。“空中舞台で披露される、市民のアイドルによる舞踏”──そんな触れ込みでね。
奈理子が舞うその場に、私たちが乱入する。そして“公開処刑”のはじまりですわ」
「へえ……それ、悪くないね。
ボクの香りも“香水として広場に撒いておく”ってのも良さそう。
奈理子が本調子じゃなきゃ、なおさら見ものだよ」
「……フフッ。観衆の前で倒れる奈理子。
市民は絶望に打ちひしがれ、信仰を失う……」
「そして最後は、白いスカートのヒロインが宙吊りになって舞台の上で──」
「そこまでよ!」
突然、部屋の扉が開いた。
現れたのは、一之木多実。きりっとしたスーツ姿の秘書官は、冷たく二人を見下ろした。
「暴走は困ります。文化パレードには上層部の関係者も出席する。
乱入の仕方と“演出”は、私に任せてもらえますか?」
ツルバナ女とクロモジが目を合わせ、肩をすくめる。
「……いいでしょう。どのみち主役は“奈理子”ですもの。
彼女が輝けば輝くほど──その堕落は、より鮮烈になりますわ」
―文化パレードと悪夢の開幕―
秋晴れの水都。水都中央広場には、色とりどりの飾りと音楽が溢れていた。今日は市主催の「文化パレード」——地域学校や企業、市民団体が参加する年に一度の祭典であり、水都女学院高校からも、白と水色の制服を纏った奈理子が「市民アイドル」としてゲスト登場する予定だった。
ステージ裏。緊張で手のひらが少し汗ばんでいる奈理子は、控室でスタッフから声をかけられる。
「奈理子さん、本番まであと5分です。よろしくお願いします!」
「……うん、ありがとう。がんばる……!」
セーラー服の上から白いマントを羽織り、リボンを結び直す奈理子。鏡の中の自分に小さく微笑んだ。
——今日こそ、笑顔を届けよう。
そう思った、その時だった。
「……ふふ。今日は良い香りがするわね。可憐で、脆くて、折り甲斐のある香り」
控室の壁の一部が“すぅ”と歪み、黒い煙のように現れる影。そこから現れたのは、花嫁のような衣装に蔦をまとったツルバナ女。
「あなた……!」
「そしてもう一人。お忘れなく」
背後から、銀と墨をまとった青年が現れる。その姿はどこか優美で、だがその口元は冷酷に歪んでいた。
「コウイカクロモジ……っ!」
「久しぶりですね、ミラクルナイト。今日も白い羽で……私を包んでくださいますか?」
奈理子の身体がわずかに震える。逃げ場はない。
——しかし、ここは市民の前。逃げるわけにはいかない。
「……こんなところで、好きにはさせない!」
アイマスクを握りしめ、奈理子が祈るように唱える。
「ミラクルチェンジ!」
しかし——
「残念だけど、今日はそう簡単にはいかないの。あなたの心、もうかなり香りに染まってるのよ」
コウイカクロモジが手にした扇をひと振り。無色透明の“香気”が空間を満たす。奈理子の鼻腔に、それは甘く妖艶に侵入した。
「んっ……く、う……」
意識が霞み、視界が歪む。
——広場に出れば、無数の観衆。子どもたちが手を振って待っている。
その中で自分が、壊れてしまう?
「奈理子さん……」
気のせいだろうか。誰かの声が、遠くから響いた気がする。
だが、奈理子の膝が崩れ落ちるより早く、強制的にステージに立たされる。白いライト、割れんばかりの歓声。だがその音は、次第に奈理子の耳から遠ざかっていった。
「……奈理子さん?大丈夫ですか?!」
マイク越しに呼びかける司会の声さえも、奈理子には届かない。
—コウイカクロモジの精神干渉は、すでに始まっていた。
―精神崩壊の序曲/白昼の幻覚―
光に包まれるステージ。
拍手、歓声、シャボン玉の舞う空。
だがその中心に立つ少女――ミラクルナイト=奈理子は、ゆっくりと膝をついた。
「……あれ……?」
足が、ふらつく。
マイクを持つ手が、小刻みに震える。
視界が滲み、音が遠ざかり、代わりに甘い香りが鼻腔を満たしていく。
(これ……さっき、控室で……)
舞台袖からツルバナ女が、優雅に腕を広げる。
「さあ、お披露目よ。市民の前で。
“純白の天使”がどこまで堕ちていくのか、みんな楽しみにしてるわ」
「……やめ……て……っ!」
奈理子の声はマイクを通して拡声され、広場に響き渡る。観客の笑顔が、ざわめきに変わる。
そして、その瞬間だった。
彼女の頭上から“雨”が降り始める。
それは実際の水滴ではない――コウイカクロモジの精神干渉が見せる幻想だった。
空から降る、黒い花弁。
地面が溶けていく。人々の顔が、無表情の仮面に変わる。
「な……に……これ……」
奈理子は足元を見た。
いつの間にか、ステージは消えていた。
そこは、真っ白な空間――四方を黒い“壁”のような植物に囲まれた迷宮。
空気は湿っていて、甘く、重たい。
「ここは……どこ……?」
「ようこそ、“白香の迷宮”へ」
ぬるりと現れるコウイカクロモジ。
白磁のような肌と中性的な顔立ち。手には薄い銀の扇子。
そしてその背後、蔦を纏ったツルバナ女が微笑む。
「あなたの願い……叶えてあげるわよ、奈理子」
「……わたしの、願い……?」
意識が朦朧とする中、奈理子の前に現れたのは――
弟・隆。友人・すみれ。ファンクラブの成好。担任の先生。
いつも彼女を応援してくれた人々の姿。
「ミラクルナイトなんて、もうやめちゃえば?」
「普通の女の子に戻って、一緒に遊ぼ?」
「がんばらなくても、いいんだよ。奈理子ちゃん」
優しい声。手を差し伸べる“友人”たち。
「う……うぅ……」
奈理子の頬に涙が伝う。
(やめたい……もう、怖い……戦いたくない……)
その心の隙間に――
「じゃあ、もうスカートを穿くのもやめちゃえば?」
と、誰かが囁いた。
——ぱさり。
夢の中で、奈理子のスカートがふわりと落ちた。
白い下着がひらりと舞う。広場のステージ上でも、彼女の足元が風に煽られているように見える。
観客の中に、ざわめきと笑い声。
「や……やめて……見ないで……!」
奈理子は手で必死に隠そうとするが、幻想の中の観客は止まらない。
その中で一際大きな声が響く。
「でも、奈理子ちゃんはそれが可愛いんでしょ?」
——それは、奈理子の心の奥に潜んでいた、本当の“自意識”の声だった。
「……っ!」
彼女の膝が崩れ落ち、地に伏す。
空からは白い羽根がひらひらと舞い降りてくる。
それは、堕ちていく“純白の天使”の象徴。
ツルバナ女は奈理子を見下ろしながら、柔らかく囁く。
「さあ……このまま、眠ってしまいなさい。可哀想な奈理子ちゃん……」
だが――
(……誰か、助けて……!)
奈理子の声は、まだ完全には消えていなかった。
―変身による抵抗/白翼の再臨―
「……誰か、助けて……」
迷宮の中心に蹲る少女の声は、薄暗い空間に響き、それでもどこか儚くて。
そのかすかな叫びに、花蔓がしなる。
コウイカクロモジが冷たい目で奈理子を見下ろす。
「哀れね……自分で歩いてきたくせに、誰かを頼るの?」
「誰かにすがって……誰かに褒められて……そんなふうにしか、存在できないくせに」
その言葉が奈理子の胸に深く突き刺さる。
(そうだ……わたしは、ただ人気者でいたいだけで……守りたいって思ってるけど、強くない……)
(怖くて……情けなくて……)
蔦が、白い太腿に絡みつく。幻影の観客が取り囲む。
「ヒロインが泣いてる」
「やっぱりあの子弱すぎ」
「ミラクルナイト、がっかりだよ」
幻覚の中で、笑い声と失望の呟きが降り注ぐ。
「もう、立たなくていいのよ」
囁くツルバナ女の声は、まるで子守唄のように甘く――奈理子を眠りへ誘おうとしていた。
……が。
「……だれが……誰が、立たなくていいって言ったの……?」
奈理子の指が、震えながらスカートの裾を握りしめた。
「怖いよ……すっごく怖い。でも……でも、笑顔で前に進むって、そう決めたんだもん……」
ふっと、その声に幻覚が揺らぐ。
「わたしは――わたしはミラクルナイト!水都の守護天使!!」
次の瞬間、奈理子の身体を包む淡い光が爆発的に広がった。
スカートが翻り、セーラー服の下からまばゆい光が迸る。
「ミラクル・チェンジ……!」
幻影の迷宮が、白い光に包まれて崩壊していく。
花蔓が焼き切れ、観客の幻影が泡のように溶けて消える。
その中心に立っていたのは――
ミラクルナイト。
水色のリボンが風に舞い、白いミニスカートが可憐に揺れる。
軽やかにステップを踏み、戦闘態勢に入る姿は、先ほどまでとはまるで別人だった。
「……復活、したの……?」
と、ツルバナ女が目を見張る。
コウイカクロモジは面を伏せ、手にしていた銀扇をゆっくり開く。
「立ったね、白翼の天使。なら、もう一度――眠らせてあげる」
が、その瞬間!
「えいっ、ミラクル・シャインブラスト!」
ミラクルナイトの両手に水色の光が集まる。
優雅にターンしながら放たれた水色の光弾が、コウイカクロモジの蔦を切り裂く!
「ぬっ……!?」
「ミラクルウイング!」
軽やかなジャンプで舞い上がり、ミラクルナイトはツルバナ女に接近!
「させないわ!」
ツルバナ女も無数の花蔓を展開して迎撃!
花弁が爆ぜ、光と蔦が交錯する激しい戦闘!
「……でもね、今のわたしは一人じゃない!」
(応援が聞こえる――水都の声が、みんなの声が、わたしの背中を押してくれる!)
「市民のみなさん、ありがとうございますっ!!」
叫びとともに、ミラクルナイトの股間が輝きを増す。
次の瞬間、決定的な一撃――
「ミラクル・ヒップ・ストライク!」
流麗な舞いの末、奈理子が放つ女の子の輝きがコウイカクロモジを包み込む!
「ぐ、ぐあああああ……っ!!」
もんどりうって倒れこむコウイカクロモジ!
「まずい……!」
と、ツルバナ女はコウイカクロモジの身体を花蔓で回収し、その場を後にする。
「今日はこのへんで退いておくわ。次はもっと綺麗に散らせてあげる、ミラクルナイト」
花蔓をなびかせて闇に消えるツルバナ女。
そして――
広場に集った人々の間から、盛大な拍手と歓声が巻き起こった。
「ミラクルナイト!」
「やっぱりあなたが最高よ!」
「水都の天使ー!!」
ミラクルナイト=奈理子は、汗に濡れた額を手で払いながら、少し照れたように笑った。
(まだ……怖いけど……でも、これがわたしの場所――)
真っ白な太腿にスカートの裾が揺れ、光の下で笑顔を見せるヒロインの姿が、
今日も市民たちの心に、希望の灯をともしていた――。
穢川研究所 地下会議室
冷たい蛍光灯の光が、灰色のコンクリート壁を無機質に照らしていた。
無数の配線と、薬品の匂いが混じる室内に、静寂が広がっている。
長机の端に腰を下ろしていたのは、花嫁然とした薄紅色のドレスを纏ったツルバナ女=柚月。
彼女の前には、身体の半分が黒く焼け焦げ、仮面が砕けた状態のコウイカクロモジが、まるで壊れかけた人形のように沈黙していた。
「……また、失敗しました……」
呟くような柚月の声は、誰にも届かないかのように微かで。
「これで三連敗。どんなに緻密な精神攻撃を仕掛けても……あの子は、あの娘は、立ち上がってくるのよ」
拳を握り、花蔓がぎり、と締めつけるように揺れる。
「市民の声援……あんな不確かなものに、何度も何度も支えられて……」
コウイカクロモジはうつむいたまま微動だにしない。
あの優雅な仮面の下の瞳も、今は閉じられている。
あの静かな嘲りも、もう聞こえなかった。
「……申し訳ありません」
やがて、かすかに唇が動いた。
「私は、“美”であの娘の心を包み、闇へ引きずり込むつもりでした。でも、最後に輝いたのは彼女の“信念”でした……私は、美しさを見誤ったようです」
「……バカね。そんな殊勝なこと言わなくてもいいのよ」
柚月は、かつてのふてぶてしい笑顔を浮かべることができなかった。
「でも……あの時、逃げなければあなたは……」
「いいんです、ツルバナ女様。わたくしは、あなたと美を成すために生まれた存在。敗れて当然です……わたくしは、ミラクルナイトという“概念”に、美で勝てなかった。それだけのこと」
そのとき――
バンッ、と扉が開かれた。
「……ほう、まあ派手にやられてくれたな」
現れたのは、白衣に身を包んだ九頭。
その背後には、腕を組んで無表情のまま立つ絹絵の姿があった。
「九頭先生……」
柚月が立ち上がるが、九頭は手を上げて制す。
「責めるつもりはない。だが、我々の時間と資源は無限じゃない」
その言葉に、柚月は膝を折るように座り込んだ。
敗北と焦燥が彼女の胸を突き刺していた。
「私は……彼女を倒したい。必ず、必ず仕留めてみせます……!」
かすれた声で呟くツルバナ女。
その顔には涙はなかったが、誇り高く華やかな美貌に、敗者の陰が色濃く落ちていた。
「……ならば、見せてもらおう。次の一手を」
九頭が言い残し、部屋を出て行く。
残された柚月と、傷ついたコウイカクロモジ。
沈黙が再び支配する部屋で、どちらの怪人も立ち上がれなかった――。
― 声なき空へ
冷たい朝の光が水都の空を染めるその時、奈理子は一人、校門を背にして佇んでいた。制服の水色のスカーフが風に揺れる。だが、心はまるで囚われた小鳥のようにざわついていた。
ここ数日、どれだけ笑ってみせても、その裏に影が差していることを、自分自身が一番よく知っていた。
「ミラクルナイト……」
公園に咲く白百合が、風にゆらめく。そこに溶け込むように、甘く、そしてほのかに濡れた香りが漂いはじめた。
「また……来るの……?」
奈理子が振り向いたとき、世界はもう、変わっていた。
水都中央広場――文化パレードの会場であったはずの空間は、すでに誰もいない白の回廊に変貌していた。純白の絨毯、白い鳥の羽根、そして微笑むふたりの怪人。
「こんにちは、奈理子さん……今日は、"最後の白"を飾っていただくわよ」
ツルバナ女が指をすべらせると、無数の淡紅の花蔓が舞い上がり、幻の舞台が完成する。
「あなたにふさわしい、純粋で、可憐で、従順なアイドルの最期……」
中空から降り立つようにして、コウイカクロモジが続ける。
「今回は“白”だけじゃない。声も、意思も、奪わせてもらうよ……」
奈理子の背に羽根が浮かび上がる。ミラクルナイトの変身。だが、光は鈍く、どこか怯えを帯びていた。
「こ、怖くなんかない……わたしは……水都の……守り神……」
微かに震えるその声を、ツルバナ女は嗤った。
「違うわ。あなたはただの人形。民衆にチヤホヤされたいだけの、小娘よ」
その言葉に、奈理子の呼吸が一瞬止まる。
広場に響く無数の幻聴。
「ミラクルナイトなんて、もう時代遅れよ」
「弱すぎて見てらんない〜」
「白いだけで、何も守れてないじゃん!」
「やめて……そんなこと……言ってないでしょ……」
耳をふさいでも、幻の声は止まらない。心の奥に突き刺さる。
「じゃあ証明してみせなさい。力でね」
コウイカクロモジが放った香気が奈理子の白いスカートの裾をくすぐる。意識が揺らぎ、視界がぼやけていく。
そこに――
「がんばって!ミラクルナイトーーーっ!」
――声が届いた。ひとりではない。
「奈理子ちゃんならできる!」
「いつもありがとう!」
広場に溢れ始める市民の声援。幻覚の外、現実世界の水都中央広場では、パレードの群衆が叫んでいた。
「……わたし、応援されてる……わたし、ひとりじゃない……!」
パァッと白い羽根が舞い上がる。ミラクルナイトの姿が輝きを取り戻した。
「行くわよ……リボン・ストライク!!」
光が渦巻き、白いリボンが天へと伸びる。その神聖なる光は、コウイカクロモジの体を優雅に、しかし容赦なく包み込み、空へ昇華していく。
「ば、馬鹿な……こんな小娘に……」
彼の最後の言葉は、霧散した花香とともに消えた。
「くッ……退くわよッ!」
ツルバナ女は苦々しく声を吐き捨て、花蔓で身を包むと一閃の風のように姿を消した。
ミラクルナイトは地に膝をついた。
市民の歓声が彼女を包む。
「ありがとう!ミラクルナイト!」
「本当に……水都の天使だ……!」
涙を一滴だけ落としながら、ミラクルナイトは微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう……わたし、また少し強くなれた気がするわ……」
―撤退後、夜の廃ビルにて
月の光が射す人気のない廃ビルの一室。
ガラスの割れた窓辺に、傷ついたツルバナ女――否、その正体・柚月がひとり、佇んでいた。
風が薄紅の蔦をなびかせる。
「……また、逃げるだけの役割。どれだけ計画を練っても、結局は……」
小さく呟いたその声には、怒りと、そしてどこか滲むような悔しさがあった。
「負けるために戦ってるわけじゃないのに……」
ミラクルナイトの瞳が脳裏に焼き付いていた。
あれほど追い詰めたはずだった。幻覚で、精神で、足場で、完全に崩壊寸前まで追いやったはずだった。
だが――あの子は立ち上がった。人々の声に支えられて。
「……あれが、"信頼"ってやつなの?」
ふと、背後に風のないはずの空間が蠢いた。
「……随分と落ち込んでるみたいだね、柚月」
ツルバナ女が咄嗟に振り向く。
そこには、先日星痕作戦で一時退場したはずのヒトデカズラが、静かに立っていた。
妖しく光る紅紫の瞳、流れるような蔓触手の一部を纏い、彼は生まれ変わったように沈黙の余韻を纏っていた。
「……あなた、もう動けるの?」
「無理やりじゃないよ。"次"があると思ったから、ね」
ヒトデカズラは口元だけで笑った。
「次……?」
「君が負けたおかげで、気付けたんだよ。ミラクルナイトって子は、ただの甘い偶像なんかじゃない。もっと奥に……本当の心がある」
「本当の、心……」
ヒトデカズラは一歩、柚月に近づきながら続ける。
「次は――ふたりでやろう。君の精神支配と、僕の夢の絡め手を重ねて、もっと深く、もっと甘く、その子の心を引き裂く」
「……ふたりで?」
「うん。次は"双重精神侵蝕(デュアル・ラビリンス)"作戦だ。僕たちの香気と幻覚で、ミラクルナイトの魂を、本当に"白く、透明"にしてあげようよ」
柚月は数秒、黙っていた。
だが――その唇が、かすかに持ち上がる。
「……ふふ。悪くないわね」
「任せて。今度こそ“眠れるお姫様”にしてあげる……永遠にね」
ふたりの怪人は、月下の闇に溶けるようにその場を後にした。
そして――ミラクルナイト・奈理子に迫る次の危機が、静かに動き出そうとしていた。
(第205話へつづく)
(あとがき)










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