DUGA

ミラクルナイト☆第213話

水都女学院の朝の廊下は、まだ始業前のざわめきと華やかな香りに満ちていた。奈理子は1年2組の教室前で、菜々美の姿を見つけると、勇気を振り絞って声を掛けた。

「菜々美さん、昨日はありがとう……」

けれど、菜々美はプイッと横を向き、そのままつかつかと教室へ入っていってしまった。後ろに続いた取り巻きたちは、奈理子を横目にクスクス笑い、まるで見世物を眺めるような視線を投げかける。奈理子の胸に、ずしりとした重さが広がった。

「菜々美さん……やっぱり、昨日私が負けたことを怒ってる……」

そう呟いて俯いたとき、不意に背後から声がした。

「菜々美が怒っているのは、負けたからじゃないと思うよ」

驚いて振り返ると、そこには二人の上級生が立っていた。長い黒髪をわざと乱したように垂らし、セーラー服をラフに着崩した紫。水都女学院風紀委員長にして、その奔放さで学内の誰もが畏れつつ憧れる存在。そして、その背後には端正に制服を着こなし、清楚な立ち居振る舞いで知られる生徒会長・一花の姿があった。

「紫先輩……それに一花さん」

奈理子は小さな声で名を呼ぶ。

紫はニヤリと笑い、片手をポケットに突っ込んだまま奈理子に近づく。

「あれはあれで、良かったと私は思っているよ」

「……でも」

奈理子は小さく首を振り、視線を床に落とした。

「負けて……ファンに喜ばれるなんて……いいはずがありません。私は、正義のヒロインとして……失格です……」

その言葉に紫は吹き出すように笑った。そして、覗き込むように顔を寄せて囁く。

「でもさ、奈理子。あのとき……気持ちよかったでしょ?」

「っ……!」

奈理子の心臓が跳ねた。図星を突かれた瞬間、赤面した頬を隠そうとするが、うまく隠せない。昨日、敗北の最中に心の奥で感じてしまった甘美な痺れ。それを言い当てられ、何も言えなくなってしまう。

「紫さん、奈理子さんを困らせないでください」

一花が静かに紫を制するように声を掛けた。その声音は穏やかだが、真っ直ぐで温かい。奈理子の不安を吸い取るような柔らかさがあった。

「奈理子さん」

一花はそっと奈理子の肩に手を置く。

「勝ち負けだけが全てではありません。昨日のあなたを見て、勇気づけられた人もきっといるはずです。だから……胸を張ってください」

奈理子は驚いたように顔を上げ、一花の清らかな瞳と視線を交わした。紫の悪戯めいた笑みと、一花の真摯な励まし。その二つに挟まれて、奈理子の胸に複雑な感情が渦を巻く。羞恥と安堵と、そしてほんの少しの誇らしさ。

「……ありがとうございます、一花さん」

奈理子は小さく微笑み返した。

紫はその様子を見て満足そうに肩をすくめた。

「ふふっ、やっぱ奈理子って可愛いね」

──廊下のざわめきの中、奈理子は二人の上級生の言葉を胸に、少しだけ背筋を伸ばして歩き出した。


生徒会長室の奥、カーテンを引いた午後の光が白い机に斜めに差し込んでいた。
正面の椅子に腰掛ける一花は背筋を伸ばし、膝の上に組んだ指を解かずに紫を見つめている。紫はその机の端に腰を預け、わざと軽薄に見える笑みを浮かべながら、一花の横顔へと伸びた髪を指先で弄んでいた。

「奈理子さん、今回は心配ですね」

一花の声は、いつもの生徒会長らしい静かな調子だった。

「心配? あの子が裸にされて炎上したり、負けて落ち込むのなんて、今まで何度もあったじゃないか」

紫は笑いながら一花の腰に手を回す。その仕草はまるで、心配する気持ちをからかうかのようだった。

「下に和美さんがいますわ」

一花はスルリと紫の手をかわす。視線は一瞬、床に落ちる。生徒会長室の扉の外、すぐ下の階のロビーでは、副会長の和香が雑務をこなしているのだ。彼女が耳を澄ませているわけではないと分かっていても、こういう時の一花は慎重だった。

「そんなに奈理子のことが心配?」

紫は机の端に足を組んで座り直し、艶やかな目で一花を覗き込んだ。

「奈理子さんは脆いところがあるから……」

「だったら、私がその心配を取り除いてやる」

紫の声は挑発的でありながら、どこか本気だった。

「紫さんが?」

「そうさ。私が奈理子に気合を入れてやる」

視線が交わる。数秒間、言葉よりも熱を孕んだ沈黙が続いた。

「いけません。紫さんがするくらいなら、私がやります」

一花は首を振る。だが紫は唇を歪めて笑った。

「いや、私も一度はミラクルナイトと戦ってみたい」

「……紫さんが思っているよりも、彼女は脆いんです。ちゃんと手加減できますか?」

「もちろん。私はね、ミラクルナイトは史上最弱のヒロインだと思っているから」

紫の声音には揺るぎない自信と、同時に妙な愛着が混じっていた。

一花は深く息をつき、やがて決意を込めて言った。

「分かりました。では、ドリームキャンディとセイクリッドウインドは私が押さえます」

紫は片眉を上げて笑う。

「心配いらないよ。あの二人は空を飛べない。私と奈理子の戦いには、ついてこれやしない」

一花は静かに頷いた。二人は再び見つめ合い、ほんの一瞬、恋人同士の空気が流れる。
けれどその眼差しの奥には、既に「ミラクルナイト vs オオムラサキ女」という近い未来が描かれていた。

――水都女学院の生徒会長室で交わされた密約。
それは奈理子の次なる試練への、静かな鐘の音でもあった。


ホテル水都インターナショナルのラウンジ。
十一月の昼下がり、重厚なシャンデリアの下で客層は皆落ち着いた雰囲気を漂わせていた。場違いなようにラフなジャケット姿の牛島は、革張りの椅子に腰を下ろしながらメニューを手に取り、その桁外れの値段に思わず眉をひそめた。

「お嬢様方が昼間に私に用があるとは珍しいですね。サボりですか?」

冗談めかして口にした牛島に、向かいの席に並ぶ二人は微笑もしない。

「早退させていただきましたの。内部進学が決まった三年生は、この時期ほとんど暇ですから」

姿勢正しくカップに指を添える一花が、上品に応じた。その横で、紫は組んだ足を揺らし、わざと着崩したセーラー服の襟元を直すでもなく気怠そうに笑っている。

「なるほど。ということは、一花さんは幼稚園から大学までずっと水女。ずっと女だけの世界にいて、男との出会いとかはあるんですか? 一花さんほどの美少女が勿体ないなぁ……」

興味津々といった顔で尋ねる牛島だったが、一花は視線を逸らすことなく、まるで関心がないように言葉を続けた。

「私と紫さんで、奈理子さんを襲撃いたします」

「えっ!?」

思わず声を上げた牛島の表情が固まる。

「研究所にもお伝えしておいた方がよろしいと思いましたので、牛島さんをお呼びいたしましたの」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! お父様のお許しはあるんですか?!」

慌てふためく牛島。

「父へは、研究所の方からお伝えくださいませ。私から申しても反対されるだけですもの。勅使河原さんの方から仰っていただければよろしいでしょう」

「一花お嬢様の身に何かあったら、私が社長に責められるんですよ!」

そこでようやく紫が口を開いた。軽く頬杖をつきながら、にやりと笑う。

「私が一花を守るから、大丈夫だよ。それに、一花は見てるだけだし」

「紫さんも大切なお嬢様なんです!」

牛島は声を荒げるが、紫は意に介さない。

「先輩が後輩をちょっと可愛がってやるだけだから、大袈裟に考えないでよ」

「……研究所にはお伝えしましたから、私と紫さんの邪魔はなさらないでくださいませね」

一花は上品に微笑み、紫に視線で合図を送ると、椅子から立ち上がった。

二人の背中がラウンジの奥へと消えていく。
残された牛島は額に汗をにじませ、低く唸った。

「困ったお嬢様たちだ……でも、先輩が後輩に制裁ってのも面白そうだな。学校で何かあったのか……な?」

結局、牛島はポケットから携帯を取り出し、穢川研究所へと連絡を入れるのだった。


放課後の水都女学院高校、1年2組の教室は華やかな空気で満ちていた。三年生の一花と紫が、進路が決まったといって早退した――ただそれだけのことが、昼下がりの女子高生たちの話題を独占していた。

「絶対に二人でイチャイチャチュッチュしてるよね!」
「うわ〜見てみたい! 紫先輩に迫られて胸キュンとか……!」
「私は男子とキュンキュンしたい〜!」
「男子となんて、いやらしぃ〜!」

キャッキャと弾む声、机をバンバン叩きながら笑う子、赤面しながらも想像を膨らませている子。水都女学院随一のカップルとも囁かれる「紫と一花」は、今や下級生たちにとって少女漫画そのものの憧れだった。

けれど、その輪に混じれない子たちもいた。

奈理子は窓際の席に座ったまま、視線をノートに落とし、笑い声から自分を切り離していた。昨日の敗北でSNSがざわついたことよりも、今朝、勇気を出して「ありがとう」と声を掛けたのに、ぷいっと無視して去って行った菜々美の冷たい背中が、胸に重くのしかかっていた。

ふと、隣の席から声がかかる。

「"男子となんて、いやらしぃ〜"だってさ。男子なんか別にどうってことないのにね」

声の主は、共学の中学出身のすみれだった。片眉を上げて、周囲を面白がるように眺めている。

「水女は小さい頃から女子校育ちの子が多いからね」

奈理子がぽつりと答える。

「ほら、あれ見て」

すみれが顎で示したのは、スカートを気にせず帰り支度をしている子たち。思いっきり脚を開いて座っているせいで、白い下着がちらちら。お嬢様校とはいえ、周りに女子しかいなければガードが緩くなる。

「股開いちゃってパンツ丸見え女子高に幻想を抱く男子がこの実態を知ったら幻滅するよね」

「でも、そういう緩いところが女子高のいいところだと思うな」

奈理子は小さく笑った。

盛り上がりは止まらない。

「絶対に一花さんがネコで紫さんがタチよね!」
「意外と紫さんが受けかもしれないよ!」

黄色い声は今度は奈理子の後ろの席、菜々美の方へと飛んだ。

「菜々美さんはどう思う? 菜々美さん、一花さんと紫さんとは幼い頃からの知り合いなんでしょう?」

鞄に教科書をしまっていた菜々美は、一瞬だけ顔を上げ、興味なさそうに吐き捨てるように言った。

「受けは一花さんよ」

それだけ言って席を立ち、ツンと顔を背けて教室を出ていく。取り巻きの女子たちがクスクス笑いながら後を追う。

「今日の菜々美さん、不機嫌だね。昨日はノリノリでテレビ解説してたのに」

すみれが肩をすくめる。

「……私が、不甲斐ないから……」

奈理子は机に視線を落とし、小さく俯いた。

教室に響く笑い声の熱気の中で、奈理子の胸の奥だけがひんやりと冷えていた。


放課後、校門を出た奈理子は、沈みかけた夕陽の光に少し目を細めた。グラウンドではまだ部活の掛け声が響き、白いテニスウェアの上級生たちが弾むボールを追っている。けれど、奈理子の足取りは軽くはなかった。

鞄を抱きしめるように持ちながら、彼女は思わず心の中で呟く。
――菜々美さん、やっぱり怒ってるんだろうな……。
今朝の冷たい視線、無視された一瞬が何度も頭をよぎる。昨日の敗北も、ファンの失望も、SNSの炎上も、胸の奥を刺すように残っている。

「私……何やってるんだろ……」

口の中で言葉が零れ、歩道橋の影に吸い込まれていった。

駅へ向かう商店街は夕暮れの賑わいに包まれていた。たい焼き屋から甘い匂いが漂い、制服姿の女子たちが列を作っている。買い食いをする余裕もなく、奈理子は足早に通り過ぎた。

そのとき――背筋に、ぞわりと冷たい感覚が走る。
人混みの中に溶け込むように、見慣れない影がある。視線を横に向けると、ビルの屋上に一瞬、紫色の光がちらりと揺れた気がした。

「……気のせい?」

自分に言い聞かせて、早足で角を曲がる。だがその瞬間、背後から生温い風が頬を撫でた。まるで大きな翅が一度だけ羽ばたいたような、低く震える音が確かに聞こえた。

奈理子は振り返った。けれど、そこには夕焼けに染まる空と、街灯が灯り始めた通りが広がっているだけだった。

「怖がってる場合じゃない。私は……守らなきゃ」

唇をきゅっと結ぶ。けれど、その手は無意識に鞄の紐をぎゅっと強く握っていた。

夕闇が濃くなる中、背後から絶えず感じる追尾の気配。奈理子は気付いていない――それが、オオムラサキの怪人が翅をひらめかせて忍び寄る、最初の布石であることに。


夕暮れの水都公園。噴水の水音と、遊歩道を行き交う人々のざわめきが溶け合う時間帯。奈理子は心の重さを抱えたまま、園内を通り抜けて帰路につこうとしていた。

その瞬間、目の前の空気がざわりと揺らめき、薄紫の翅を大きく広げた女が彼女の行く手を塞いだ。

「――っ!?」

奈理子は思わず足を止め、見開いた瞳をオオムラサキ女に向けた。

「ふふ……見つけた、水都の守護神」

低く甘い声とともに、オオムラサキ女は両腕で奈理子を抱え上げ、そのまま大空へと舞い上がった。

「きゃあああああっ!!」

突然の浮遊感に奈理子は悲鳴を上げる。制服のスカーフが風にちぎれそうに舞い、足がばたつく。

「たっぷりと可愛いがってあげる♡ さあ、見せてごらんなさい――変身を」

オオムラサキ女は余裕の笑みを浮かべ、上空で奈理子の体を軽々とポーンと放り投げた。

「ひゃぁぁ〜〜〜っ!!!」

真っ逆さまに落下していく奈理子。夕陽の残光と街灯の光が目に流れ込み、視界がぐるぐると回る。だが、その手にはすでにアイマスクが握られていた。

「ミラクル・チェンジ!」

水色の光が落下と共に炸裂し、奈理子の制服が一瞬にして霧散する。下着姿の華奢な肢体が宙を舞い――直後、光のリボンが絡みつくように全身を包み込み、白と水色のコスチュームが形成されていく。

「っ……!」

地面激突寸前、変身を終えたミラクルナイトはミラクルウイングを広げ、噴水広場の縁に華麗に着地した。ヒールが大理石をかすかに鳴らし、胸を上下させながら見上げる。

「いきなり何するのっ! 危ないじゃないの!!」

怒りと恐怖を振り払うように叫ぶミラクルナイト。頬は赤く、瞳には涙がにじんでいた。

「水都の守護神なら……これくらい、平気でしょ?」

オオムラサキ女は優雅に翅を震わせ、黄昏時の空気を切り裂きながら噴水広場へ舞い降りる。その姿は月光を背にして、まるで一枚の絵画のように荘厳だった。

その様子を、公園の陰から見つめる一花。

「国蝶オオムラサキ……格調高く、優雅な姿とは裏腹に、怪力無双、性格は勇猛果敢……。上空から投げ出すのは、さすがにやり過ぎでしたが……」

一花は胸に手を当て、息をのんで囁いた。

「……紫さん、やっぱり素敵ですわ」

うっとりと、その瞳はオオムラサキ女だけを映していた。

――噴水広場に、守護神と妖艶な怪人が対峙する。
静かな夜風が、これから始まる激闘を予感させるように二人の髪と翅を揺らしていた。


噴水の水音が響く夜の広場。冷たい霧が漂う中、ミラクルナイトは胸を上下させながらオオムラサキ女を睨みつけていた。
変身直後の高揚と恐怖が混じり合い、声は怒りで震えている。

「いきなり掴んで、放り投げて……死ぬかと思ったんだから! ふざけないでよ!!」

怒鳴る彼女の白い翼が風に翻り、細い肩が小刻みに震える。
対するオオムラサキ女は落ち着き払った笑みを浮かべ、ゆるりと広げた翅に夕日を反射させた。

「怖かった? でも、それで本当に死ぬなら――守護神なんて名乗れないでしょ」

紫紺の瞳が鋭く光り、声は甘やかに挑発を含む。

「あなたには、それくらいの恐怖を越える力があるはずよ」

「……勝手にそんなこと言わないで!」

ミラクルナイトは歯を噛み、涙を滲ませた瞳を逸らさずに睨み返す。

「私は水都のために戦ってるの! あなたに試される理由なんてない!!」

「試してるわけじゃないわ」

オオムラサキ女はゆっくりと歩を進め、翅をゆらめかせる。

「ただ――あなたを立ち上がらせたいだけ。泣き顔で怯えるままじゃ、誰も守れないでしょう?」

「っ……!」

奈理子の胸に鋭い棘のように突き刺さる言葉。だが彼女の心はすぐに怒りで覆い隠された。

「だからって、あんなやり方……! 危険すぎる!」

そのとき、陰から見守る一花の吐息が重なる。

「……紫さん……」

胸に抱く思いを抑えきれず、かすかに漏れる声。彼女は奈理子を立ち直らせたい、そのために紫と約束したはずだった。だが、今の紫の視線はまるで独占欲を孕んでいて――胸がきゅうっと締めつけられる。

オオムラサキ女はちらりと視線を横に逸らし、一花の姿を確認した。
その瞳にわずかな翳りが差す。

「……ふぅん。あの子のことをずいぶん気にかけているのね」

嫉妬の色を隠すように口元を歪め、再びミラクルナイトに視線を戻す。

「でも――私は私のやり方で、あなたを強くしてあげる」

「……っ、勝手に……!」

ミラクルナイトは拳を握り締め、怒りを隠さずに叫ぶ。

「私はもう怖い思いなんて御免よ! あなたがどんな理由で来たって、容赦しないから!」

噴水広場に火花のような緊張が走る。
――互いに相手を立たせようとしながらも、言葉は衝突し、感情はねじれてゆく。


水都公園の噴水広場は、橙から群青へと移ろう夕空に包まれていた。街灯に火が灯り始め、噴水の水しぶきが朱色の光を反射する。その中心で、ミラクルナイトとオオムラサキ女が対峙していた。

「来なさい、水都の守護神。あなたの覚悟を見せて」

オオムラサキ女は優雅に両腕を広げ、巨大な翅をばさりと揺らす。その瞬間、紫紺の鱗粉が宙に舞い上がり、光を浴びてきらめいた。

「また勝手なこと言って……っ!」

ミラクルナイトは短く息を吐き、地面を蹴った。白と水色の姿が夕空に躍り出る。
彼女の拳が一直線に伸びる――が。

「遅いわ」

オオムラサキ女は風を裂くように滑らかに身をひねり、翅で起こした風圧でミラクルナイトの拳を逸らす。ミラクルナイトはバランスを崩し、石畳を滑りかけた。

「くっ……!」

とっさに踏ん張った彼女の顔に、追い討ちのように鱗粉が降りかかる。視界が霞み、頭がふらりと揺れた。

「紫の幻粉――ほんの少し浴びるだけで、体の感覚が鈍るわ」

オオムラサキ女は微笑みながら爪先を揃えて軽やかに舞う。

「でも心配しないで。これは試しの一振り。あなたがどこまで立ち上がれるか、見てみたいだけだから」

「試しだって……!? こんな危険な……!」

ミラクルナイトは視界を振り払うように首を振り、光を集めて手を掲げた。

「――ミラクル・シャインブラスト!」

水色の光が帯のように走り、オオムラサキ女に向けて放たれる。

「いいわ、その調子」

オオムラサキ女は嬉しげに呟き、翅を大きく広げた。紫紺の翅が盾となり、光の帯を斜めに弾き返す。

「その怒りも、恐怖も、全部力に変えなさい!」

「っ……簡単に言わないで!!」

夕暮れの広場に、怒声と光の軌跡が交錯する。
――それはまだ本気ではない、互いを探るような小手調べ。しかしミラクルナイトにとっては一歩も退けぬ真剣勝負だった。


石畳の広場に、靴音と羽音が激しく響いた。
ミラクルナイトは何度も拳を繰り出すが、その全てをオオムラサキ女は軽やかな身のこなしで受け流す。

「がっ……また……!」

白い袖口が石畳に擦れ、痛みに顔を歪める奈理子。立ち上がろうとするたび、視界を覆う鱗粉が幻のようにちらつき、呼吸も浅くなる。

「怒りに任せて突っ込むだけ……それでは守護神として不合格ね」

オオムラサキ女の爪が空を裂き、風の刃となって奈理子の頬を掠める。

「もっと冷静に。もっと強く。あなたは怒りで動くお人形ではないはずでしょう?」

「うるさいっ……!」

ミラクルナイトは拳を握りしめ、再び跳びかかる。だが体は重く、動きが雑だ。背中を紫紺の翅に弾かれ、噴水の縁に叩きつけられた。水飛沫が宙に舞い、夕暮れの空を濡らす。

――そのとき、公園に甲高いスピーカー音が鳴り響いた。
『こちら町内放送です。ただいま水都公園噴水広場にてミラクルナイトが怪人と交戦中! 市民の皆様は決して近づかず、安全な場所に避難してください!』

アナウンスが繰り返されるたびに、人々のざわめきが増していく。

「えっ、ミラクルナイトがまた戦ってるの?」
「広場だって! 急げ!」
「スマホ! 配信だ!」

避難を呼びかける声を無視して、好奇心と興奮に駆られた若者たちが広場の周囲に駆けつけてくる。

「みんな……見てる……」

肩で息をしながら、奈理子は視線をさ迷わせた。群衆の目は恐怖よりも期待に輝いている。
――怒りだけでは、もう動けない。
守りたいのは自分じゃない、この人たちだ。

胸の奥に、熱と冷たさが同時に湧きあがった。

「ふふ、いい顔になったわね」

オオムラサキ女が優雅に笑う。試すような視線。

――一方その頃。
公園の片隅で、一花が放送を耳にしていた。

「……ついに来ますわね」

彼女は手にした細身の杖をぎゅっと握りしめ、制服の裾を翻す。夕風に髪が舞い、決意を秘めた瞳が公園の方角を見据える。

「紫さん……やはり奈理子さんを追い込むおつもりですのね。ならば私も、約束通り備えなければ」

彼女の胸に、複雑な想いが渦を巻く。奈理子への友情。そして紫への憧れと嫉妬。
夕陽は沈みきり、広場の街灯が本格的に灯り始めた。戦いの熱気と観衆の熱狂が、夜の幕開けを告げていた。


水都商店街。夕刻のアーケードに町内放送の警報が響き渡った。
『ただいま水都公園噴水広場にてミラクルナイトが怪人と交戦中!市民の皆様は安全な場所に避難してください!』

店先で揚げ物を頬張っていた隆は、箸を止めてため息をついた。

「……また、姉ちゃん襲われてるのか」

横でソーダを飲んでいた寧々が眉を吊り上げ、椅子を蹴るように立ち上がる。

「私、行ってくる」

「オオムラサキって蝶だろ。寧々、大丈夫か?」

隆の声には不安が滲んでいた。彼は知っている。ドリームキャンディは強いが、空を飛べない。空戦の相手は苦手だ。

「でも、奈理子さん昨日も負けたし……放っておけないの」

寧々は迷いなく言い切る。その真剣な瞳に、隆は一瞬言葉を詰まらせた。

「……無理するなよ」

そう言って、そっと寧々の手を握る。彼女の小さな手に、ほんの少しの温もりを託した。

――

下校途中のライムの耳にも、スピーカーの警報が届いた。

「オオムラサキ女……紫さんか?」

彼は足を止め、夕陽に染まる空を仰ぐ。紫のことは詳しく知らない。ただ、一花の親友だということは知っていた。

「紫が奈理子を襲った……? じゃあ、一花も一緒に?」

胸にざわめきが広がる。だが一花は、かつてミラクルナイトと衝突したとはいえ、再び手を下すような人物ではない。

「これは、何か訳がある」

ライムは自分に言い聞かせるように呟き、足を広場の方へと向けた。

――

水都神社。
授与所の戸を閉め、片付けをしていた凛の耳に、警報が飛び込んできた。

「奈理子……」

呟いた瞬間、胸の奥で何かがざわついた。

「ここはいいから、行きなよ。大谷さんには私から言っておくから」

同僚の巫女が背中を押すように声をかけてくれる。

「ごめんね」

凛は深く一礼すると、緋袴の裾を翻して駆けだした。夕暮れの石段を、巫女装束のままひた走る姿は、使命に引き寄せられる戦士のそれだった。

――

一方その頃。
放課後、水極町のブティック街を気晴らしにぶらぶらしていた菜々美も、警報を耳にした。

「えっ……紫さんが奈理子を襲ってる?」

目を見開き、バッグを抱きしめる。

「まさか……早退したのは、そのため? 一花さんと二人で奈理子を狙うつもりだったってこと?」

驚きと動揺で、呼吸が速くなる。

「でも……ミラクルナイトがオオムラサキ女に勝てるはずないのに……」

複雑な感情に胸を締めつけられながら、菜々美は踵を返し、水都公園へと走り出した。


水都公園、噴水広場。
オオムラサキ女の羽ばたきが生む突風が白い砂煙を巻き上げ、広場に集まり始めた市民たちの頬を打った。

「ミラクルナイト……!」
「また戦ってるのか……!」

ざわめきが広がる。だがその中央で、少女は決して倒れなかった。
白と水色の衣装を土埃に汚しながら、膝を震わせ立ち上がるミラクルナイト。

「はぁっ……はぁっ……」

胸を押さえ、呼吸は荒い。昨日の敗北の痛みがまだ体に残っているのか、動きは鈍い。

「フフフ……市民の前で見せつけるとは、滑稽ね。あなたの弱さを」

オオムラサキ女が羽を広げ、光を反射させながら嘲笑った。

「……弱いからって……負けるわけにはいかないの……!」

ミラクルナイトは声を張り上げた。震える声は、しかし確かに観衆の耳へ届く。

ざわめきが静まり、見守る市民たちが息を呑んだ。

「怒りだけじゃ……力にはならない……。私が立っていられるのは……あなたたちが見てくれているから……!」

握りしめた拳に、ほんのわずかだが光が灯る。

「がんばれー!ミラクルナイト!」
「負けるな、守護神!」

声援が一人、また一人と重なっていく。老若男女の声が、彼女の背中を押した。

「……ありがとう……!」

奈理子は顔を上げ、光を湛えた瞳でオオムラサキ女を睨み返した。

紫色の翅が広がり、再び襲いかかる怪人。だが、広場の中央でミラクルナイトは両足を踏みしめ、観衆に見守られながら真っ直ぐにその爪撃を受け止めた。

「私は……水都の守護神……!みんなの想いを背負って、立ち続ける!」


ドリームキャンディとセイクリッドウインドは、町内放送で流れた「噴水広場にてミラクルナイトが交戦中」の知らせを耳にすると、すぐさま駆け出していた。
夕暮れの水都の街は赤い光に染まり、通りを抜ける風さえもざわめきに満ちている。二人の心は急き立てられるように熱く、足取りは自然と速くなる。

「奈理子さん、持ち堪えてください!」

ドリームキャンディが胸を押さえ、息を切らしながらも前を見据える。

「……絶対に、間に合う!」

セイクリッドウインドは強く頷き、ガストファングを腰に差したまま、凛々しい顔つきで並走した。

そのときだった。
夕陽の光を切り裂くように、ひらりと宙を舞う影が現れる。鮮やかな翅が広がり、舞い散る粉が夕暮れを虹色に染め上げた。

「……っ!」

二人が立ち止まると、目の前に妖しく微笑む女が降り立った。

白い喉を震わせるような笑い声。華やかでありながら、禍々しい気配を纏った女がそこにいた。蝶の翅を背に揺らめかせ、つま先で路地を踏む姿は、まるで舞台の主役が幕を開ける瞬間のよう。

「ごきげんよう――セイクリッドウインドに、ドリームキャンディ。ようやくお会いできましてよ」

お嬢様然とした澄んだ声に、二人の背筋が粟立つ。

「アゲハ女……!」

ドリームキャンディが思わず息を呑んだ。

「なんでここに……!?」

セイクリッドウインドは即座にガストファングを構え、敵意を隠さない。

アゲハ女は唇に笑みを浮かべ、艶やかに扇子を広げるように翅を揺らした。

「ミラクルナイトがお困りのご様子。けれど、残念ながら……あなた方が駆けつけるわけには参りませんの」

翅がぱっと開かれ、夕陽の光を反射して虹色の粉が空気を染める。

「ここはわたくしが、お相手いたしますわ。ふふ……どうぞご覚悟を」

凛の脳裏に蘇るのは、奈理子が粉の舞う中で倒れ伏した記憶。
寧々の心に走るのは、キャンディチェーンさえ届かず翻弄されたあの姿。

二人は同時に拳を握りしめた。

「……奈理子さんを救うためなら、恐れてなんかいられない!」

「奈理子を守る……今度こそ!」

決意の声を上げた瞬間、アゲハ女の瞳が妖しく細まり、翅が強く打ち振られた。突風が路地を吹き抜け、夜の幕開けを告げるかのように戦いの舞台が整った。


夕暮れの噴水広場は、すでに戦場と化していた。
白と紫が交錯する閃光の中、ミラクルナイトはオオムラサキ女の鋭い翅の斬撃を必死に受け止めていた。リボンで受け流そうとするが、鋭利な斬光は一歩ごとに彼女を押し下げていく。

「ミラクルナイト!負けるなぁっ!」
「水都の守護神、頑張れーっ!」

町内放送を聞いて駆けつけた市民たちが、噴水を取り囲むように声援を上げる。恐怖よりも期待が勝り、少女の戦いに街は熱狂していた。

だが、その隣の芝生広場では――全く異なる光景が繰り広げられていた。

「おやめになった方がよろしいのではなくて?」

アゲハ女が扇のように広げた翅を一振りするだけで、風がうねり、紫がかった燐粉が空気を満たした。

「ぐっ……視界が……!」

セイクリッドウインドが顔を覆った瞬間、背後から突風が叩きつける。彼女は芝生に転がされ、ガストファングを手放しそうになった。

「凛さん!」

ドリームキャンディが叫び、キャンディチェーンを鞭のように振るう。しかし――。

「ふふ、直線的ですわね」

アゲハ女は軽やかなステップでひらりとかわし、逆に翅の一閃を重ねる。生み出された風圧がチェーンを弾き飛ばし、ドリームキャンディの体ごと薙ぎ払った。

「きゃあっ!」

芝生を転がるドリームキャンディ。観客から悲鳴が漏れる。

「おい見ろ、あっちでも戦ってるぞ!」
「ドリームキャンディと……セイクリッドウインドだ!」
「すげえ……一度に二つの戦いなんて……!」

熱狂はさらに膨れあがった。噴水広場の正義の少女を応援する声と、芝生広場の激闘に目を奪われるざわめきが交錯する。

「ふふ……ご覧あそばせ。これがわたくしの“蝶翼の舞”――」

アゲハ女が翅をひと打ちすると、粉が花吹雪のように舞い上がり、光を浴びて紫紺の霞を生み出した。

その瞬間、寧々と凛は四方八方に分身するアゲハ女に囲まれる。

「幻影……っ!?」

「どれが本物なの……!」

観衆にはただ美しく舞う蝶の群れにしか見えない。しかし二人には、それが鋭い爪と刃を隠した殺意の舞だと理解できた。

「さあ……踊りましょう。わたくしと、命尽きるまで――」

囁きと同時に、複数の幻影が一斉に襲いかかる。

「くっ……!」

ドリームキャンディはチェーンを振り回して迎撃するが、空を切るばかり。セイクリッドウインドのガストファングも、粉の中で狙いを定められず、体勢を崩す。

市民はその劣勢を知らぬまま、ただ

「すごい!」

と叫び、歓声を上げていた。
噴水広場で必死に踏ん張るミラクルナイトと、芝生で幻影に翻弄される二人の仲間。
二つの戦いが、夕暮れの水都を熱狂と不安で包み込んでいった。


噴水広場を覆う夕暮れの赤みの中、白い翼を広げて必死に飛ぶミラクルナイトと、瑠璃色の巨大な翅をゆったりと羽ばたかせるオオムラサキ女が、まるで舞踏会の主役のように空を支配していた。

群衆の目は皆その空中戦に釘付けだ。大噴水の水飛沫を背景に、ミラクルナイトの放つ水色の光弾が矢のように空を裂く。しかし、それは掠りさえせず、オオムラサキ女の周囲を虚しく散っていくだけだった。

「何が起こってるの?! どうして紫さんが奈理子と戦ってるの!」

群衆のざわめきの中、菜々美は人の波をかき分けてライムに詰め寄った。

ライムは冷静な表情を崩さず、空を見上げたまま答える。

「心配ないぞ。オオムラサキ女は全然本気を出していない」

「一方的にやられているじゃないの!」

菜々美の声は震えていた。その視線の先、ミラクルナイトは紫電を纏った衝撃波を必死に避けるのに精一杯だ。

「あぁっ!」

悲鳴が噴水広場を貫いた。オオムラサキ女の放つ衝撃波はミラクルナイトの体には決して届かない。しかし、まるで狙ったようにコスチュームだけを切り裂き、裾を裂き、肩布を飛ばし、白き守護神の姿を少しずつ無様にしていった。

「水都の守護神の力はこんなもの? 早く私を倒さないと、あっちがやられちゃうわよ」

空高くからオオムラサキ女が囁くように告げる。

その言葉に促されるように、ミラクルナイトは視線をずらした。芝生広場。そこではアゲハ女が優雅に舞い、風と光と幻影を操りながら、ドリームキャンディとセイクリッドウインドを翻弄している姿が見える。

(どうして……? アゲハ女が……?)

かつて完敗した時、敗者となった自分に優しく声をかけてくれたあのアゲハ女が、今は冷酷に仲間を襲っている。その光景が頭を掠め、奈理子の集中が一瞬途切れた。

「戦い中に余計なことは考えない!」

オオムラサキ女が叫ぶや、巨体が一直線に突っ込んできた。

「きゃあっ!」

避け切れず、白翼の少女は噴水広場の石畳に叩き落とされる。水飛沫が弾け、群衆が一斉に息を呑んだ。

「うぅ……蝶なのに、こんなに力が強いなんて……」

地に伏しながらミラクルナイトは唇を噛んだ。

オオムラサキ女は高みからその姿を見下ろし、静かに告げる。

「教えてあげる。オオムラサキは英語で“Great Purple Emperor”――『偉大な紫の皇帝』って言うのよ」

その声音は冷酷にして誇り高く、まるで皇帝が無力な侵入者に宣告を下すかのように響き渡った。

観衆は熱狂と恐怖の狭間で叫び声を上げる。誰もが、空を舞う紫の女帝と、地に伏す白い守護神の対比に息を飲んでいた。

――その熱狂は、まだ芝生広場のもうひとつの戦場を知らない。
そこでは既に、アゲハ女の圧倒的な力にドリームキャンディとセイクリッドウインドが翻弄されつつあった。


噴水広場にざわめきが走っていた。
水色の光弾はことごとく避けられ、紫電を纏う衝撃波に翻弄され続けたミラクルナイトの姿は、誰が見ても劣勢そのものだった。石畳に叩きつけられ、泥と水しぶきに濡れながらも、彼女はよろよろと震える膝を押さえて立ち上がろうとする。

「アンタ、奈理子の彼氏でしょ!何とかしなさいよ!」

菜々美が真っ赤な顔でライムに詰め寄った。

しかしライムは首を横に振り、

「いや、こんなときは彼氏よりも、親友の菜々美さんが声をかけてやる方がいい」

と、落ち着いた声で返す。

「なにそれ!男と違って、女の子は彼氏が一番なのよ!」

菜々美の必死な叫びは、周囲の観衆の耳を強く打った。

その瞬間、群衆がどよめいた。

「奈理子!彼氏が見てるぞー!」
「菜々美お嬢様も応援してるぞー!」
「奈理子、頑張れーっ!」

広場の四方から飛んでくる声援が、まるで嵐のようにミラクルナイトを包み込む。息を切らし、額に汗をにじませながらも、彼女は小さく震える指先をぎゅっと握り締め、再び大きく翼を広げた。

「……負けられない……水都のみんなが、私を見てる……」

白銀の羽ばたきが夕暮れの空を切り裂き、再びミラクルナイトは空へ舞い上がった。吹き抜ける風に揺れるスカートが泥で重くなろうと、足取りがふらつこうと、その姿は決して挫けない。

オオムラサキ女は、冷静にその姿を見上げて微笑した。

「……なるほど。あの弱小ヒロインがここまで粘るとはね。可愛いだけの飾りじゃない、というわけか。けれど……そろそろ終わりにしましょう」

巨大な瑠璃色の翅が大きく震え、紫電が空気を裂く。

「秘奥義――光翼・紫電華斬ッ!」

紫電を纏った斬撃の衝撃波が一直線に走り、眩い光を引き裂いてミラクルナイトを包んだ。

「きゃあぁぁっ!」

コスチュームが鋭く裂け、白と水色の布が舞い散る。翼も崩れるように力を失い、彼女の体は石畳に叩きつけられた。衝撃で噴水が跳ね上がり、白い飛沫が高々と舞い散る。

ミラクルナイトの細い指が一瞬、空を掴もうと伸びるが……そのまま力を失って、閉じられた瞳は動かなくなった。

「奈理子ぉぉぉっ!」

菜々美の悲鳴と、市民のざわめきが広場に響き渡る。

オオムラサキ女はゆるりと空を旋回しながら、失神したミラクルナイトを見下ろした。

「偉大なる紫の皇帝の前では……弱小な守護神など、ただの可憐な人形に過ぎないのよ」

その声は夕空に溶け、市民たちの胸に冷たい不安を刻んでいった。

――しかし、それはまだ終幕ではなかった。


芝生広場に広がる群衆は、「紫電華斬」の余波にざわめいていた。まだ石畳の粉塵が舞い、噴水の水しぶきが夜空の照明を受けてきらめいている。その光景の中、アゲハ女は思わず胸を押さえた。

(紫さん……あんな大技を……奈理子さんは…)

だが心配の色を浮かべた瞬間、背後から伸びた飴鎖がアゲハ女の右腕に絡みついた。

「隙ありッ!」

ドリームキャンディの声が響く。

彼女の顔は血に濡れ、衣装もボロボロだったが、その瞳にはなお闘志が燃えていた。キャンディチェーンはぎゅう、と締まり、アゲハ女の動きを封じる。

「空を飛ぶ相手でも……捕まえてしまえば……こっちのもんよ……!」

ふらつきながらもセイクリッドウインドが鉄扇・ガストファングを構えた。乱れたコスチュームに汗が光り、その姿はなお凛々しい。

「そうかしら?」

アゲハ女の瞳にわずかな余裕が戻る。

その瞬間、紫電が閃き、キャンディチェーンがあっさりと斬り裂かれた。

「なっ……!」

ドリームキャンディがたたらを踏む。

空に舞うオオムラサキ女が静かに矢を引き絞った姿のまま、紫の稲光を収めていた。

「紫さん……」

アゲハ女は切なげにその名を呼ぶ。

「言ったでしょ、一花は私が守るって」

オオムラサキ女はアゲハ女の肩を抱き寄せ、夜風に瑠璃色の翅を揺らした。

「ミラクルナイトは弱いから、手加減してくださいって言ったじゃないですか……」

アゲハ女は低く囁いた。

「手加減はしたよ。それに、彼女は弱かったけど……"可愛いだけ"でもなかった」

その言葉には、戦いの余韻に宿るかすかな敬意が滲んでいた。

アゲハ女の視線がふと地上に落ちる。そこには必死に走り寄るひとりの少女の姿――菜々美。

「……あれは、菜々美さん?」

彼女が石畳に横たわるミラクルナイトに膝をつき、頬を叩く。

「しっかりしなさい!」

ぱしん、と乾いた音が響く。

「ん……ぅ……」

呻き声と共に、かすかに瞼が動いた。

菜々美は涙を滲ませながら上空を睨み、

「なぜ奈理子を襲ったんですか!」

と声を張り上げた。

アゲハ女はオオムラサキ女の腕をそっと振りほどき、静かに舞い降りる。その動きは蝶そのもののように優雅だった。

「……奈理子さんが菜々美さんに無視されて、ずっと落ち込んでいたから。励まそうと思ったんです」

その言葉は、菜々美の耳にだけ届く小さな声だった。

「励ます?これが?!」

菜々美の怒気が爆ぜる。

「……確かに、やりすぎでしたね」

アゲハ女は唇を噛み、ミラクルナイトの顔を見下ろす。

「でも、水都の守護神なら、これくらい平気だと……」

オオムラサキ女も舞い降り、二人の隣に立った。

「そろそろ行こう。一花。――あの二人が、こっちに来る」

芝生広場の奥を見据える紫の瞳が、セイクリッドウインドとドリームキャンディの気配を捉えていた。

「菜々美さんが抱いていれば、奈理子さんも立ち直れるでしょう。あとは任せます」

アゲハ女は静かに告げ、オオムラサキ女と並んで翅を広げる。

夜空に溶けるように飛び去っていく二人。残されたのは、菜々美に支えられたミラクルナイトと、市民たちのどよめきだった。

――水都の夜空に、翅の光が儚く消えていった。


噴水広場の石畳に横たわる奈理子の頬を、菜々美は必死に叩いていた。

「奈理子!しっかりなさい!目を開けて!」

涙声の菜々美の叫びに応えるように、ミラクルナイトのまぶたがわずかに震え、かすかな声が漏れる。

「……菜々美さん……?」

力なく呟いたその瞳が開いた瞬間、広場に集まった市民たちがどよめき、すぐに歓声となって溢れた。

「奈理子が目を覚ましたぞ!」
「ミラクルナイト!立ち上がれー!」
「水都の守護神はまだ負けちゃいない!」

菜々美は安堵と怒りが入り混じった表情で奈理子を抱きしめる。

「バカ……こんなになるまで戦って……。でも、無事でよかった……」

そこへ芝生広場から駆け寄ってくる二つの影。傷だらけのドリームキャンディと、まだ息を整えながらも毅然と立つセイクリッドウインドだった。

「奈理子さん!」

ドリームキャンディが膝をつき、涙ぐみながらその手を取る。

「もうダメかと思った……よく耐えてくれましたね」

「水都の守護神にふさわしいわ」

セイクリッドウインドは静かに言い、菜々美とミラクルナイトに寄り添うように膝を折った。

「私たちも一緒にいる。もう一人じゃない」

市民たちは声を合わせるように再び叫び出した。

「奈理子ー!負けるなー!」
「ドリームキャンディもセイクリッドウインドも来たぞ!」
「水都のヒロインたちが揃ったんだ、絶対に大丈夫だ!」

菜々美の腕に支えられながら、奈理子はよろよろと上体を起こした。まだ体は震えていたが、その目には弱々しいながらも光が戻っていた。

「みんな……ありがとう……。私は……まだ、戦える……」

その声に、市民の歓声は一段と高まり、噴水広場全体を震わせた。まるでその声援が、弱り切った奈理子の背に再び白い翼を広げさせるかのように。

――水都の守護神は、まだ倒れてはいなかった。


噴水広場に残ったのは、砕けた石畳と戦いの余韻、そして安堵の空気だった。
白い光がようやく収まり、ミラクルナイトはふらつきながら立ち上がり、隣にいる菜々美に視線を向けた。

「菜々美さんが……助けてくれたの?」

かすれた声で問うミラクルナイトに、菜々美は顔をそむけてそっけなく答える。

「違うわよ……」

そこへ駆け寄ってきたドリームキャンディが、にやりと笑って口を挟む。

「菜々美さんが怒鳴ったら、あの二人――敵はびっくりして逃げていったんですよ」

「菜々美さん、ありがとう!」

奈理子は思わず菜々美に抱きついた。

「ちょっ……や、やめなさい……!制服が汚れるでしょう!」

菜々美は真っ赤になって抵抗するが、奈理子はギュッと強く抱き締め、涙をにじませながら言う。

「私、菜々美さんから怒られないように……もっと強くなる!」

その抱擁の光景に、観客として残っていた市民たちが一斉に歓声をあげた。

「奈理子ちゃんも菜々美お嬢様も可愛いぞー!」
「いいぞー!女の友情バンザイだ!」

「だ、だから……やめてってば!奈理子さん、下着丸見えなの!早く変身解除なさい!」

顔を真っ赤にした菜々美が慌てて小声で叱るが、その仕草すら観客には微笑ましく映った。

セイクリッドウインドが二人に歩み寄り、くすりと笑った。

「女の友情は素晴らしいねぇ」

ドリームキャンディもその隣で肩をすくめる。

「でも、私たち3人とも派手にやられましたね。コスチュームなんてボロボロですよ」

セイクリッドウインドは頷きながら、遠く噴水のきらめきを見つめた。

「そうね……私とキャンディも、もっと強くならなきゃ」

夕暮れの光が差し込む広場で、4人の少女たちはそれぞれの胸に決意を抱きながら、笑顔と共に戦いの幕を閉じた。

――市民の喝采に包まれながら。


生徒会本部。
夜も更け、窓の外はすでに街灯の光が冴えわたっていた。

副会長の和香は机に向かい、にこやかに書類を整理していた。カリカリとペンを走らせる音が静かな部屋に響く。
そこへ、早退していたはずの一花と紫が並んで帰ってきた。

「えっ……お二人とも? 今日はもう帰ったんじゃなかったんですか?」

驚いた表情で振り返る和香に、一花は柔らかく笑って答えた。

「ごめんなさい、和香さん。少し抜け出してただけです。でも、残業してくれてありがとう。和香さんがいてくれるから、本当に助かります」

和香は照れくさそうに微笑んで肩をすくめた。

「べ、別に……好きでやってるだけです。会長と紫さんはもうゆっくり休んでください」

二人は軽く会釈すると、そのまま会長室へ入った。
奥のシャワー室で衣服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びながら今日の汗と戦いの埃を流し合う。
白い湯気の中で、二人は安堵の吐息をもらした。

紫が髪を濡らしながら、ふっと口を開く。

「ミラクルナイト、弱いかと思ったけど……思ってたよりは強かったよ。立ち上がる力は、本物だね」

一花はタオルで紫の肩を拭きながら、静かに笑った。

「奈理子さんは迷いがなければ結構強いんです。あの子は周りを気にしてしまうから……でも、今日は市民や菜々美さんに見守られて、きっと自分を信じられたはず」

紫はうなずき、壁に背を預けて少し照れたように言う。

「……菜々美と仲直りできてよかったよ。菜々美は素直じゃないからねぇ」

一花はその言葉に笑みを浮かべ、紫の手を軽く握った。

「目的は達成できましたね。あの子たち、これからもっと強くなる。私たちは影で支えてあげればいいんです」

「また奈理子をここに呼ん蜜を吸おうと思ってない?」

「今日は紫さんに吸われたいですわ」

シャワーの音が二人の会話を包み込み、まるで新しい夜への予感を告げるように響いていた。

――生徒会の裏で交わされた静かな語らいは、また奈理子たちを動かす力となっていくのだった。

(第214話へつづく)

あとがき