ミラクルナイト☆第202話
穢川研究所・最上階 社長室
分厚い絨毯に重厚なデスク。豪奢な空間を飾るのは、一枚の絵画――白衣をまとった異形の生物が、街を焼く光景。
その絵を背に、穢川研究所社長・勅使河原が革張りの椅子に沈み、鋭い視線で部下たちを見下ろしていた。
長身の美女秘書・一之木多実が、静かに報告を続ける。
「皇国ホテルの一件、市警の士気が上がっています。
特に、女刑事・柏原蒼菜が辱めを受けたことで、警察内部で『名誉のための捜査』という名目の結束が生まれつつあります」
「くだらん正義感だな」
低く唸るような声で、巨漢の赤岩が吐き捨てた。
その隣では、無表情のスキンヘッド氷川が黙して立っている。
2人は“闇の処理班”として、穢川の裏任務を一手に担っている凶悪なコンビだ。
「市警幹部にも我々の意を汲む者はいますが、今は彼らも口を閉ざしています」
と多実。
「天野妙華……あの女、勝手なことを……」
勅使河原がゆっくりと立ち上がり、窓の外の灰色の空を見つめた。
「教団と連携してやってきたのに、あれで全てが台無しだ」
「本来ならば“見せしめ”のつもりだったのでしょうが、かえって“決起”を生みましたからな」
皮肉げに笑うのは、社長の側近・渦巻(うずまき)。目を細めて、多実に聞く。
「それで教団は、また何か言ってきてるのか?」
「はい。**『量産型のカエルでは不満』**と」
「なんだとォ!こっちはリスク背負って作ってるってのに……!」
「……九頭先生の見解をお聞きしましょう」
勅使河原が、壁際に佇む白衣の男――**開発責任者・九頭**に目を向けた。
九頭は薄く笑って言った。
「量産型が“劣っている”わけではありません。
ただ、“効果を引き出せる器”が、圧倒的に不足しているだけの話です」
「ふむ、つまり……薬そのものより、使う者の“資質”だと」
「ええ。教団のカエル女、ファンユイ・チュン。
彼女の身体は、我々の薬に“応える”ように進化しています。まさに最適適合体です。あれは奇跡の一例です」
「でもそんな“逸材”がそう都合よくポンポン現れるかよ……」
赤岩が大きな手で髪を撫でながら呟く。
「ですから、教団には別の爬虫類薬を与えましょう。ヤモリ型。
まだ量産化には至っていませんが、試験はすでに完了しています」
「おぉ、爬虫類……遂にそこまで!」
渦巻が目を輝かせた。
しかし、九頭はそれを一瞥しただけで、口元にさらに深い笑みを浮かべる。
「……ですが、私が本当に試したいのはこちらです」
白衣の内ポケットから取り出したのは、ガラスの小瓶。
内部で、虹色に揺れる不安定な液体が蠢いていた。
「これは……?」
多実が警戒の目を向ける。
「“情緒汚染型覚醒剤・プロトX3”。
人格と感情の境界線を侵食し、精神を再構築する新型試薬です」
「……新型?」
勅使河原が問う。
「ええ。対象の“ヒロインとしての資質”を、裏返す。
弱さも優しさも、すべてを闇へとねじ曲げる――
これは、奈理子にこそ使う価値があると考えています」
その名が出た瞬間、部屋の空気が少し冷たくなった。
勅使河原は沈黙のまま、数秒間考え込み……やがて、口を開いた。
「……よろしい。九頭先生に任せる。
野宮奈理子というヒロインが、どこまで“変異”に抗えるか――興味深い実験になる」
九頭の瞳が、獣のように光った。
「ふふ……純白の天使を、奈落に堕としてみせますよ」
背後で、ガラス瓶の中の液体が不気味に泡を立てた。
奈理子――ミラクルナイトに迫る、かつてない試練。
それは、敵の肉体ではなく、自らの心を蝕む**“毒”**の始まりだった。
鈍い電灯がぼうっと灯る穢川研究所の地下実験室。硝子と金属で組まれた巨大な培養槽の中で、どろりとした紫がかった液体が不気味に揺れていた。その中央に浮かぶのは、まだ輪郭の定まらぬ何か――触手と花弁と棘のようなものが絶え間なく形を変え、次第にひとつの怪人の姿を構築しつつあった。
「ふふふ……完璧だよ、これは……」
九頭は白衣の袖を擦りながら、舌なめずりするような声で呟いた。その横顔には陶酔と恍惚が入り混じり、理知の影は既に見当たらない。
「奈理子の精神を蕩けさせる、素晴らしい怪人の誕生の瞬間だよ。可憐で、柔らかくて、侵蝕的で……そして、決して逃れられない。」
その隣では、助手の絹絵が薄く眉を寄せていた。
「また、奈理子に嫌らしいことをするつもりですね……可哀想に……あの子、あれでも一応、正義の味方なんですよ?」
「だからこそ、いいんじゃない」
後ろから応じたのは、実行部隊長・柚月。ピリッとした黒の戦闘服に身を包んだ彼女は、艶然と唇を吊り上げる。
「奈理子は虐め甲斐があるからね。ぷるぷる震えて、頬を赤らめて、涙を滲ませながら抵抗するその姿……最高じゃない」
「まったく同感だよ」
九頭が指を鳴らすと、培養槽の温度が一気に上がり、ぬらりと何かが動いた。
ぬちゅっ……ずるる……
巨大なヒトデのような五放放射状の体表に、湿った蔓が絡みつき、触手の先からは星型の吸盤と獰猛な花弁が交互に開閉する。中心には、仮面めいた花の仮面――目の位置に光る五つの瞳が、冷たく周囲を睥睨した。
「目覚めろ……ヒトデカズラ」
九頭の低い声が室内に響くと、培養液が沸騰し、怪人の体がびくびくと痙攣した。
「……ワタシハ……ダレヲ……オモチャニスレバ……イイ……?」
かすれた低音に艶めいた声が混じる。九頭は恍惚の笑みを浮かべながら、その問いに答えた。
「“ミラクルナイト”、野宮奈理子だよ。あの子を、ゆっくり、優しく、深く、花弁の奥へ誘い込んでおやり」
「……タノシミ……タノシミ……」
ヒトデカズラはゆっくりと槽の中から立ち上がった。蔓が床を這い、吸盤がぴたりと絹絵の足首に触れたが、彼女は素早く身を引いた。
「やだ、もう……!」
「刺激を与えると繁殖しちゃうからね、気をつけて」
九頭が面白がるように笑い、柚月はそっと手を叩いた。
「出撃の準備はすぐ整えます。あとは、“獲物”を待つだけですね」
研究所の冷たい地下には、誰もいないにもかかわらず、花の香りと海の匂いが入り混じる、奇妙に甘ったるい空気が漂っていた――奈理子に新たな災厄が、今まさに放たれようとしている。
放課後の水都女学院高校。午後の陽光が薔薇色の校舎を染め上げ、静かな学び舎にそよ風が吹き抜ける。窓際の席に座る奈理子は、制服のリボンを整えながらふと顔を上げた。
「奈理子さん、今日も委員会?」
声をかけてきたのはクラスメートの菜々美。高慢なお嬢様然とした態度だが、どこか気にかけているようでもある。
「ううん、今日はもう帰るわ。……ちょっと疲れちゃって」
奈理子は微笑みながら立ち上がる。昨日までの戦いの疲れがまだ尾を引いている。ミラクルナイトとしての使命と、アイドルのように注目される学園生活。いつもどこかで、心が張り詰めていた。
玄関を出ると、外はすっかり春めいていて、制服のスカートの裾を軽く風が揺らした。ふと、正門前で立ち止まった彼女の目に入ったのは──
「幻想の温室──感覚の迷宮へようこそ」
水都女学院の裏通り、校門から歩いて五分ほどの場所に、見慣れない美術館が姿を見せていた。大きな温室風の建物に、ガラス張りのドームがきらきらと夕陽を反射している。
《体験型インスタレーション》
《幻想の花園》
《五感刺激型のアート空間》
《入場無料・学生歓迎》
並ぶ看板には、どれも奈理子の興味をくすぐる言葉ばかりだった。少し疲れた帰り道、どこか違う場所に立ち寄ってリフレッシュしたくなる気分。
「……ちょっとだけ、寄り道してみようかな」
制服のスカーフを指でつまんで整えると、奈理子は軽やかにその“温室”へと足を向けた。
だが──その背後の高所から、紫のスーツを纏った長髪の女が双眼鏡で彼女の姿を見下ろしていた。
「来たわね……ミラクルナイト。1人で……ふふっ」
ツルバナ女=柚月が微笑み、すぐ隣では、緑と黄の粘液質のドレスをまとった奇怪な影が、ぞわりと身を蠢かせる。
ヒトデカズラ――既に温室内に潜み、奈理子の心を“開花”させる瞬間を今か今かと待ち受けていた。
「星痕作戦、開始しますわよ。あなたの記憶に──私たちの蔦を絡ませてあげる……」
ガラスの温室の扉が、音もなく、すうっと奈理子を迎え入れた。
「わあ……」
ガラスのドームをくぐり抜けた奈理子の口から、思わず感嘆の声が漏れた。
温室内は、夕陽の朱色をすべて受け止めたように、金と紅の花々が咲き乱れ、宙には柔らかく漂う香気の靄。湿度を含んだ空気がほんのりと肌にまとわりつき、まるで異国の楽園に足を踏み入れたようだった。
奈理子の水色のセーラー服が、その幻想的な空間のなかでいっそう儚く、まるで夢のなかの妖精のように映える。
「誰もいない……の?」
足音を忍ばせながら、奈理子は植物のアーチを潜っていく。薄いガラスに囲まれた空間は、風もなく、音もない。けれどその沈黙こそが、彼女をどこか心地よくさせた。
「展示作品とかじゃないのかな……これは」
足元には草花の模様が描かれた絨毯、壁面には葡萄やツタのモチーフ。さまざまな形状のランプがゆらゆらと輝き、まるで生きているかのように瞬いている。
そのとき──
「ようこそ、『幻想の温室』へ」
どこからか女の声が響いた。柔らかくも艶を帯びたその声は、直接耳に語りかけるような感覚すらあった。
「え……?」
ぱち、と壁の一部が開き、ワインレッドのスーツに身を包んだ女性が現れる。柚月――ツルバナ女である。
「今日は特別なご案内をさせていただきます。貴女のような、清らかな魂をお持ちの方に……」
「えっと……ここって、体験型の美術館……?」
「ええ、五感を使って“観る”アート。まさに貴女のような繊細な感性の持ち主にこそふさわしい場所。どうぞ、奥へ」
にこやかな微笑み。だが、奈理子の脳裏には一抹の不安が過ぎった。どこか、冷たい――
(でも……大丈夫。もし何かあっても……私は、ミラクルナイトだもの)
セーラーの襟を押さえ、奈理子は一歩、さらに奥へと進んだ。
──その先、壁に偽装された“植物の檻”の中には、ヒトデのような形状の肉厚な蔓を蠢かせる“何か”が待ち構えていた。
「……あれが、奈理子? 噂通りだな」
ヒトデカズラが、ツルバナ女の背後の闇から呻くように言った。
「ええ、心は甘く脆く、それでいて……人々に見られたいという欲望に満ちた光の少女」
柚月が答える。
「この温室全体が、彼女の感覚を拡張し、心の蓋をゆっくりと外していく」
「今はまだ、その“火入れ”の段階。焦ることはないわ」
ふたりの怪人は、温室全体を一つの精神干渉装置として奈理子を絡めとっていく。
──このとき、奈理子はまだ知らなかった。
この温室が、目に映るすべてのものが、彼女の精神を絡め、ほどき、染め上げるために“設計された舞台”であることを。
「……あれ、なんだか……少し、暑い……」
奈理子は額に手をやった。いつの間にか温室内の湿度がじわりと上がり、頬に伝う汗が制服の襟に滲む。だが、その汗すらどこか甘く、むしろ心地よい感覚として肌に広がっていく。
「え……? この香り……」
それは、ほんのりと甘く、どこか官能的で、どこか懐かしい匂いだった。花の香りとも違う、まるで果実と乳香が溶け合ったような芳香。
──嗅覚、侵入完了。
「この香り……なんだか、気持ちが……ふわっと……」
奈理子の歩みが緩む。視界の端に揺れる花々が、少しずつ、形を変え始めていた。星のような花弁──いや、星に似たヒトデの断面がちらりと混じっていた気がした。けれど、すぐに形を戻す。見間違い、と笑おうとしても、笑えない。
──視覚、侵入開始。
「ねえ、誰か……いますか……?」
声を出した奈理子の耳に、すぐさま応えるように微かな音が返ってくる。──自分の声に似た声。どこかで録音されたような声が、ゆっくりと壁に反響するように繰り返された。
「ねえ、誰か……いますか……?」
「……いますか……」
「……か……」
──聴覚、侵入開始。
「やだ……やっぱり、ここ……おかしい……っ」
小さく震える奈理子の指先が、制服のスカートを握りしめる。その汗ばむ掌の内側に、かすかな震動を感じた。
ツル──ッ……
足元にいつの間にか伸びていた薄い蔓が、彼女の足首にまとわりついたのだ。
「……え? いま、何か……」
一瞬で振り返るが、そこに何かがいた痕跡はない。──けれど確かに、冷たい感触があった。まとわりついた何かが、奈理子の“感覚”だけを撫でていったかのようだった。
「いや……っ」
心の中で何かが軋み始める。わけもなく不安になり、わけもなく目頭が熱くなる。
けれど、それが“誰かに見られている”という快楽的な緊張感に、次第に変わっていくのを、奈理子はまだ言葉にできない。
──星痕作戦、火入れ段階完了。
ヒトデカズラとツルバナ女は、温室のさらに奥で静かに囁き合う。
「ほら、ね。彼女の感性は繊細なの。軽く“擦る”だけで、すぐに音を立てて歪みはじめる」
「次は──幻覚の扉を、開いてあげましょうか」
蔓が音もなく床を這い、温室の空間そのものが、奈理子の記憶の内側へと“形”を変え始めていく。
薄闇の中に、柔らかく揺らぐ白い光が満ちていた。
奈理子はどこか知らない草原に立っていた。あの「幻想の温室」の大温室を歩いていたはずなのに、気づけば、ここにいた。温室に充満していた甘ったるい香りは消え、代わりに、清涼な風が彼女の頬を撫でていく。
「ここは……どこ……?」
空は淡く紫がかった夕暮れ。見渡す限り、ネモフィラのような淡青色の花が一面に咲いていた。まるで、世界そのものが奈理子のセーラー服の色と同調しているようにさえ思える。風が吹くたび、花が一斉にさざめき、音のない波のように揺れる。
「……帰らなきゃ……私、帰らないと……」
そう思って一歩を踏み出した瞬間、地平線の彼方から誰かの足音が聞こえてきた。カツン、カツンと高いヒールの音。振り返ると、遠くから近づいてくる人影があった。
それは、母だった。
「……お母さん?」
しかし、どこか違う。奈理子の知る母ではあるのに、表情が見えない。目鼻立ちが霞がかっているのだ。それでも、声だけははっきりと耳に届いた。
「どうして、あなたは――普通の子じゃないの?」
「……!」
胸の奥が、鋭く締めつけられるようだった。
「ずっと言ってたわよね。みんなのために、正義の味方になりたいって。……でも、それって、誰かに求められてるの? 本当に、あなたのしたいことなの?」
「私は……私はみんなを守りたくて……」
言葉を返すと、今度は空に巨大なスクリーンのような映像が浮かんだ。そこには、ミラクルナイトとして戦う自分の姿が映し出される。敵に翻弄され、スカートを剥がされ、涙ぐみながらも立ち上がろうとする奈理子。観衆のどよめきとカメラのフラッシュ。ネットに飛び交うコメント。
『ミラクルナイトって弱すぎない?』
『あの子、可愛いだけで何もできてなくない?』
『ちょっとえっちすぎる。あんなの子供に見せていいの?』
奈理子は耳を塞ごうとする。しかし、声は脳内に直接響いてくるようで、遮ることはできなかった。
「やめて……そんなの、聞きたくない……!」
風景がまた変わった。今度は学校の廊下。すれ違う女生徒たちが、彼女の方を見てひそひそと笑っている。
『ミラクルナイトなんでしょ? あの子、またスカート脱がされてたらしいよ』
『え、マジ? 趣味なんじゃないの?』
『ちょっと変態っぽいよね~』
「……私じゃない……そんなふうに思われたくない……」
膝が崩れそうになる。もうこの場所から立ち去りたい。けれど、どこへ行けばいいのかわからない。
そのとき、誰かの手が背後から奈理子の肩に触れた。振り返ると、そこにはツルバナ女がいた。妖艶な花嫁姿。穏やかな微笑み。
「逃げなくていいのよ。あなたが欲しかったのは、“愛されること”でしょう? 私は知っているわ。あなたが本当は戦いたくないってことも」
「違う……違う……私は……」
「いいのよ、奈理子ちゃん。ミラクルナイトじゃなくても、奈理子ちゃんのままで……私が、優しく包んであげる」
ツルバナ女の手が、奈理子の頬を撫でる。その指先から、蔓のような細い花の繊維が伸び、奈理子の身体に絡みつく。視界がぼやけ、足元の草原が再び花々に沈んでいく。
「やめて……お願い、やめて……っ」
しかし、目の前の風景はどんどん歪んでいく。もう“ここ”が現実なのか幻なのか、奈理子自身も判断できなくなっていた。
そこへ――
花畑の彼方から、誰かの声が届いた。
「奈理子さん! 奈理子さーん!!」
誰かが――呼んでいる。
次の瞬間、奈理子の胸に、淡い水色の光が灯った。
彼女の名前を――心から叫ぶ、誰かの声によって。
花畑に降るように響いた声。それは、遠くて近く、懐かしくて、温かかった。
――「奈理子さーん!!」
その声を耳にした瞬間、奈理子の胸に灯った水色の光は、脈打つように強く輝き始めた。ぼんやりと霞んでいた意識が一気に引き戻される。
「……この声……寧々ちゃん……?」
微かな呟きとともに、奈理子の足元に広がっていた青い花畑がゆっくりと崩れ始めた。まるで布をめくるように、草花が溶け、空が裂け、世界が裏返る。偽りの平穏が剥がれ、奥に潜んでいた忌まわしい真実が露わになる。
奈理子の体を絡めていた蔓がきゅうっと締め付ける。
「まだ……逃がさないわよ」
ツルバナ女の甘やかな声が脳に直接響いてくる。柔らかい微笑みを浮かべながらも、瞳の奥には狂気が宿っていた。
「あなたの心をほぐして、ほどいて、とろとろにしてあげる。抵抗しなくていいの。……そのまま、私の中で夢を見ていればいいのよ」
ツルバナ女の身体から、ふわりと甘い香りが放たれた。奈理子のまわりに、再び花々が咲き乱れる。幻の世界が再構築されようとしていた。
だが、そのとき――
「だめだよ、奈理子さん! 目を覚まして!」
幻の空に、橙色の閃光が走る。花畑を突き破って現れたのは、ドリームキャンディだった。
「キャンディ……!」
その姿を見た瞬間、奈理子の中で何かが“戻った”。
「……私は……ミラクルナイト……!」
水色のセーラー服が風に揺れる。奈理子の身体を包んでいた花の蔓が、一瞬緩む。その隙を突いて、奈理子はスカートのポケットの中でアイマスクを握り締めた。
「聖なる奇跡よ……いま、私に力を!」
──変身。
光が爆ぜる。
水色のリボンが舞い、彼女の身体を白と光で包んでいく。幻の空間にきらきらと粉雪のような光が舞い落ち、やがてそこに、凜と立つ白と水色の戦士――ミラクルナイトの姿が現れた。
「……この手は、誰にも握らせない。私の心は、誰にも穢させない!」
強く、まっすぐな瞳でツルバナ女を睨みつけるミラクルナイト。その姿に、ツルバナ女の微笑がわずかに歪んだ。
「ふふ……ようやく、起きたのね。でも、もう遅いわよ。あなたの心にはもう、私の花が根を張った。あとは、崩れるのを待つだけ……」
蔓が再び地面から立ち上がり、ミラクルナイトに襲いかかる。そのとき、背後からさらに強風が吹き荒れる。
「その汚らわしい蔓、祓わせてもらいます!」
風の刃を纏い、セイクリッドウインドが滑るように幻の草原に降り立った。続いて、ドリームキャンディがキャンディチェインを振り回しながら跳び込んでくる。凜は水都女学院近くに異常な結界が張られていることに気付き、寧々とともに駆けつけたのだった。
「奈理子さんは、私たちが守る!」
──三人、揃った。
ミラクルナイト、ドリームキャンディ、セイクリッドウインド。
幻の空間に、聖なる戦士たちの力が満ちていく。
「ツルバナ女……あなたの幻術は、ここで終わりよ」
ミラクルナイトの声が、空間の支配を塗り替える。光が溢れ、蔓が引き裂かれ、虚構の大地が音を立てて崩れていく。
「まだ……まだ終わらせない……」
ツルバナ女が最後の力を振り絞り、幻覚空間の核となっていた蔓をミラクルナイトに向かって突き立てる――
が、その刹那。
「ミラクル・アクアティックラプチャー!」
水のオーラが渦を巻き、ツルバナ女の攻撃を飲み込み、幻の空間ごと霧散させた。
──静寂。
風が吹き、あの甘い香りも、霞む夕空も、すべてが溶けていった。
奈理子が目を開けたとき、そこは再び「幻想の温室」の中央ドームだった。床には萎びた植物の蔓と、脱ぎ捨てられた花の衣が散らばっている。
ツルバナ女の姿は、もうなかった。
「……助かったの?」
「はい。ちゃんと、間に合いました」
ドリームキャンディがそっと微笑む。
「……でも、妙な気配が消えたわけじゃないわね」
とセイクリッドウインド。
三人は互いに頷き合い、注意深く警戒しながら、静まり返った温室をあとにした。
──まだ作戦は、終わっていない。
──「幻想の温室」の出口に続く回廊を、三人のヒロインたちは慎重に進んでいた。
「……おかしいな。敵の気配が完全に消えてるわけじゃないのに、誰も現れない」
セイクリッドウインドが鉄扇・ガストファングを軽く構えながら囁く。
「まだ……どこかに潜んでるのかな?」
ドリームキャンディが辺りを見回す。
ミラクルナイトも、変身の疲れを押し隠すように、眉を寄せて頷いた。
「あのときの幻覚……あれ、全部本物みたいだった……。あんなに、怖くて、寂しくて……」
彼女の足取りは、わずかにふらついていた。精神の根幹を揺さぶる攻撃を受けたばかりだ。表情には、まだ不安の影が残っている。
「奈理子さん、大丈夫ですか?」
ドリームキャンディが心配そうに問いかけた。
「うん……平気。ありがとう……でも……」
そのとき、天井のガラスが**パリンッ!**と割れた。
「来たッ!」
セイクリッドウインドが即座に反応し、ガストファングを天井に向けて構えた。
だが、降ってきたのは怪人でも敵でもなかった。
──それは、大きく裂けた白い布。
「これは……ウェディングヴェール……?」
奈理子が手に取ったそれを見つめた瞬間、三人の背後でざぁっと葉擦れの音がした。
ツルバナ女の置き土産──《精神残渣》が、温室の壁に貼りつくように出現し、再び幻覚の気配を漂わせ始めたのだ。
「まだ消え残ってる……!」
「ちょっとした残り香のようなものね」
とセイクリッドウインド。
「でも放っておいたら、また誰かがやられるかも」
「この温室ごと浄化しなきゃ……!」
ミラクルナイトがふらつきながら立ち上がる。もう一度、胸のリボンに手をあてて祈るように呟いた。
「……奇跡よ。届いて。みんなを守るために……」
「ミラクル・アクアティックラプチャ──!」
今度は、優しく、包み込むような水色の光が放たれた。
それは温室全体を満たし、蔓の影も幻の残骸も、静かに、しかし確実に、光に還していった。
ガラスの壁を伝っていた蔦が剥がれ落ち、しおれた花々は柔らかな光の中でほころび、やがて静かに消滅した。
……やがて。
「……終わった、かな」
奈理子が、汗を拭いながら呟く。
「温室の結界、解けたみたい」
セイクリッドウインドが頷いた。
「じゃあ、帰りましょう」
ドリームキャンディが奈理子の手を取る。
「少し、涼しい風を浴びて、ホッとしませんか?」
ミラクルナイト──奈理子は、優しく頷いた。
「うん……ありがとう。2人とも……」
──こうして、「幻想の温室」で仕掛けられた『星痕作戦』は、三人のヒロインによって阻止された。
だが。
その光の中を離れたとき──夜の水都の空には、もう次の“脅威”が影のように張りついていた。
館の最上部に開いた、花のような形をした破れ目。
そこから、誰にも気づかれぬよう、一つの黒い影がすうっと夜の帳に紛れていった。
──「第7段階、移行準備完了……」
それは、誰かの囁きのような風の音に混ざり、消えていった。
(第203話へつづく)
(あとがき)













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