ミラクルナイト☆第206話
放課後の水都女学院高校。クラシックな校舎の廊下に、制服姿の野宮奈理子の足音だけが微かに響いていた。
「……はぁ……」
どこか上の空の表情。ロッカーを開けると、ハンカチやノートがバラバラと落ちた。拾い上げようとしゃがむ手が、震えていた。
(あれ、また手が震えてる……)
最近、夢を見る。息苦しいほど甘くて粘ついた夢。ウデムシ男に体をなぞられる悪夢、花の中に閉じ込められたまま誰かに名前を呼ばれる声。それが夢なのか現実だったのか、わからなくなる時がある。
「奈理子さーん、下校一緒に……」
教室からすみれの声がした瞬間、奈理子はびくりと肩を震わせた。
「あっ、ごめん、今日は……急いでるの……!」
振り返ることなく走り去る奈理子。笑顔の仮面を貼りつける余裕すら今はなかった。
水都の街を歩く奈理子の背は小さく、頼りなげだった。市民の視線を浴びながらも、声はかけられず、彼女の表情を見た誰もが、そっと道を空けた。
(わたし……本当に、守れてるのかな……?)
何かを失ったような空虚感が、彼女の胸にじわじわと広がっていた。風が吹いても、前髪ひとつも揺れない気がする。頬をなぞる冷たい感覚は、涙ではなかった。
夕暮れ水都、古びた公民館跡地にツルバナ女が現れた。肩にツルを巻きつけながら、壁一面に転写された奈理子の写真を見上げる。
「ふふ……あなたの"弱さ"を、私は愛しているのよ、奈理子さん……。でもそれは、あなた自身が否定している部分でもある。ならば、そこをもっと……抉って差し上げましょう」
ツルバナ女は床に描かれた魔法陣へ一輪の花を落とす。それは、奈理子の“記憶”と“願望”を模した擬似映像世界を生み出す魔界植物――「幻蔓(まぼろしづる)」を開花させる儀式だった。
「作戦名は――『偽りの回廊』。あなたの理想と罪、夢と破滅を融合させて……壊すの」
その頃、奈理子は放課後の街角を一人で歩いていた。
街灯がぽつりぽつりと灯りはじめ、ふとした瞬間、前方に見慣れた後ろ姿を見つける。
(……え? これ……私?)
それは中学時代の自分。ミラクルナイトになりたての頃、何も知らず、ただ守ろうとして空回りしていた少女。彼女は笑っていた。けれど――
「また失敗したね、奈理子ちゃん」
振り返った“自分”の顔は、冷たく歪んでいた。肩の向こうには、戦闘でボロボロにされた水都の人々。倒れたドリームキャンディ。涙を流すセイクリッドウインド。そして……逃げる市民。
「キミが弱いせいで、また誰かが傷ついたんだよ」
「ちがう……そんなこと……!」
奈理子は叫ぶ。けれど“彼女”は構わず続ける。
「思い出してごらん。イソギンチャク男にやられたとき、誰も助けに来なかった夜を。初めてライムに見捨てられた瞬間を。自分が人気者じゃなかったら、誰も振り返ってくれなかった現実を」
「やめて……お願い……!」
声にならない悲鳴が、空間に吸い込まれていく。彼女の足元が崩れ始める。どこまでが現実で、どこまでが幻なのか――境界はもう曖昧だった。
遠く離れたアジトの奥、ツルバナ女はゆっくりと目を閉じ、幻蔓を通して奈理子の心の底に降りていく。
「あなたのその罪悪感……その愛されたい気持ち……見事に咲き誇っているわ、可憐で脆くて……とても美しい」
そして彼女は、最後の一言をそっと呟く。
「そろそろ、壊れてちょうだい……"ミラクルナイト"」
神社の石畳に、かすかな鈴虫の声が響く夕暮れ時。
風間凜――セイクリッドウインド――は、巫女装束のまま竹箒を持ち、参道の落ち葉を掃いていた。
「……今日は、何事もなく終わりそうね」
空に目をやる。薄朱に染まる雲。胸に一瞬よぎる、どこか物足りないような、嵐の前のような予感。
――その時だった。
町内放送のスピーカーが、突如としてけたたましく鳴った。
”警戒情報、警戒情報。本日午後五時十八分、水都公園付近にて、ツルバナ女の姿が確認されました。付近の市民は、速やかに安全な場所へ避難してください――”
凜は竹箒を握りしめたまま、ハッと顔を上げた。
「水都公園……って、奈理子の帰宅路……!」
その瞬間、石段を駆け上がる二つの影。
「凜さ〜ん!!」
制服姿の寧々と隆が、汗だくで駆け込んで来た。
「やっぱりツルバナ女は……姉ちゃんの帰りを狙ってたんだ!」
と隆。
「奈理子さんは今、ひとりで戦ってるかもしれません……早く行きましょう!」
と寧々。
凜は力強く頷いた。
「ええ。奈理子を放ってなんておけない!」
二人の手が、同時に変身アイテムへと伸びた。
「風よ、私を護れ――セイクリッドウインド!」
「夢よ、私に力を――キャンディ・スイーツ……ドリームキャンディ!」
神社の境内に鮮やかな光が奔り、二人の戦士が現れた。
「姉ちゃんを頼んだぞー!!」
隆の声が背に響く中、二人は夕焼けの空を裂くように走り出した。
市街地を抜け、目的地はすぐそこだった。
だが――
「……止まれ、セイクリッドウインド、ドリームキャンディ」
無機質な低音が響いた瞬間、住宅地の交差点の向こうに“それ”は現れた。
漆黒のボディに、鬼のような顎。鋭利な角。重厚な甲殻。背には異様な二枚羽。そして腹部から突き出る太く黒光りする毒針。
異形の怪人、クワガタバチ。
「ク……クワガタ……男……!?」
一歩後ずさるセイクリッドウインド。その脳裏に蘇る、かつての惨敗。ノコギリクワガタ型の怪人“クワガタ男”に完敗した記憶。
だが――
「雑魚のノコギリクワガタなどと一緒にするな」
声とともに、怪人の胸板が膨れ、地響きとともに大股で前進してくる。
「俺は“ヒラタ”。しかも――我が国最強の甲虫、ツシマヒラタクワガタだ!!」
「クワガタだけじゃない! あの背中の羽根、大きな針……!」
ドリームキャンディが叫ぶ。
「そのとおり……! 俺はツシマヒラタとオオスズメバチの力を合わせ持つ、究極合成体・クワガタバチ様だ!!」
二人に向けてクワガタバチが両腕を広げる。その巨大な鉤爪が、街灯をひと薙ぎで折った。
「ツルバナ女のために動くと思うな。これは“俺の狩り”だ。貴様らを嬲り潰し、次はあの”純白の天使”、ミラクルナイトの番だ……!」
「やらせるものですか!!」
ドリームキャンディがキャンディチェーンを手に前へ出た。
「ツシマヒラタだろうとスズメバチだろうと、私たちが止めてみせるッ!」
セイクリッドウインドもガストファングを構える。
――風が唸り、キャンディが唸る。
次の瞬間、雷鳴のごとき衝撃が走る――!
「ツシマヒラタ……怪人なんかにせずに、クワガタ屋に売れば高く売れるのに……」
ガストファングを握りしめながら、セイクリッドウインドがポツリと漏らした。
「そんな余裕ありません……私たちにとって、最悪の相手ですよ……」
ドリームキャンディが、固く握ったキャンディチェーンを手元で微かに震わせた。
かつての敗北――
クワガタ男との戦いの記憶が、ふたりの胸を重く縛る。
あのときも、攻撃は通じなかった。
甲虫の外殻はどんな風の刃も、どんなチェーンの一撃も弾いた。
しかも今回は――蜂の飛翔能力で空を飛ぶ。
「……蜂の翅まで持ったクワガタ。おまけにスズメバチの針付き。どうやって地上で戦えっての……」
「風で引きずり下ろせれば……でも、まだ来る気配が――」
その瞬間、耳をつんざくような羽音が響いた。
「ッ……!!」
ドォン!!
爆発音にも似た衝撃が走り、セイクリッドウインドとドリームキャンディの間を、黒い弾丸が通り抜けた。
「速いっ!」
「低い……っ!」
ツシマヒラタクワガタの脚が、アスファルトをかすめて火花を散らしていた。
それは地上スレスレを、飛翔というより滑空に近い軌道で突っ込んでくる――
「こっちに来る……!」
咄嗟にキャンディチェーンを構えるドリームキャンディ。
だが、その瞬間にはもう――
ズガッ!!
ドリームキャンディの腹に、クワガタバチの大顎が炸裂。
「――ッぐああっ!」
地面に転がり、路面標識に激突して大きく弾かれる。
「寧々っ!!」
セイクリッドウインドが叫ぶ間もなく、彼女も空気を切り裂く音を耳元で感じた。
「――ッ来る!」
避けきれなかった。次の瞬間、顎が脇腹をえぐるように捉え――
「う……ああぁぁっ!!」
凜の身体も空中に放り投げられた。石畳に背中から叩きつけられ、空気が肺から抜ける。
どちらも、立ち上がるのにしばしの時間を要した。
「なんて速さ……」
「地上戦じゃ、反応できない……!」
ようやく身体を起こしたときには、怪人はもう上空に舞い上がっていた。
ツシマヒラタの漆黒の甲殻が、夜の帳と重なるように高く――凶悪に――浮かんでいた。
「……仕留め損ねたか」
忌々しげに唸りながら、上空で羽根を唸らせるクワガタバチ。
毒針の先が光り、次の一撃の準備が整っている。
「私たち……このままじゃ……」
「くっ……」
風も、夢も、届かない。
ここにきて、地に足のついたヒロインたちは、ただただ“空”から蹂躙されるばかりだった。
クワガタバチがつぶやいた。
「次は……白いやつを潰す。嬲り尽くして、叩き潰す……!」
その声とともに、怪人は黒い稲妻のように空を裂き、奈理子のもと――ツルバナ女が待つ場所へ向けて飛び去っていった。
セイクリッドウインドとドリームキャンディは、地面に倒れたまま、茫然とその後ろ姿を見送るしかなかった――
──「もう……いや……こんなの……見たくない……」
虚ろな瞳で呟く奈理子は、制服すらボロボロになっていた。膝を抱え、座り込むその姿は、ツルバナ女が仕掛けた精神結界〈黒香の迷宮〉の最深部に囚われた少女そのものだった。
周囲は桃色に霞む幻の花園――
本来なら安らぎを与えるはずの香りが、今は奈理子の心をえぐり続けている。
「もう十分。あなたは自分の弱さから目を背けてきた。可愛い、アイドル、守られて当然……そんな幻にいつまで逃げてるの?」
ツルバナ女が、白く細長い指で結界の縁をなぞる。
「いいのよ。すべて投げ出しても。あとは私が、あなたの可愛らしさだけ残して、人形みたいに飾ってあげる……ふふっ」
奈理子の表情は虚無のままだ。意識はもう沈みかけている。
ツルバナ女が手を翳し、仕上げの呪式を唱えかけたそのとき――
「グゥオオオオオッ……!!」
甲高い羽音と共に、影が結界を破り降下してきた。
「なっ……!」
ツルバナ女が思わず一歩退く。
霞んだ空が黒く裂け、そこから現れたのは、甲殻を持ち、巨大な大顎と翅を備えた異形の怪人――クワガタバチだった。
「おいおい、やってるねえ……奈理子ちゃん、壊れかけてるじゃねえか」
口元を歪めながら、クワガタバチがツルバナ女と奈理子を見下ろす。
「クワガタバチ……お前、風間凜たちの相手をしていたはずじゃ……!」
ツルバナ女が声を荒げる。
「あんな小娘ども、飛べねぇんだろ? 地上でカサコソ動いてるのを突くだけで終わりだよ。つまんねえ」
翼を震わせて空気を震動させるクワガタバチ。その振動は、結界の花粉と空気の層に異常をもたらす。
「ま、もうお膳立ては済んでるしな。後は、白いのを嬲ってトドメさしてやりゃ――」
ブォン――!
そのとき、地上で異変が起きた。
奈理子の様子を心配して、周囲に集まりつつあった市民たちが、クワガタバチの姿に気付きざわめき始める。
「な、なにあれ!?」
「怪人!? ミラクルナイトは!?」
「逃げろっ!」
悲鳴が上がり、市民たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
「おいおい、せっかくの観客が逃げちまうじゃねえか。しょうがねえな……」
クワガタバチが両翅を震わせると、弾丸のような突進が始まった。
「やめろ!! 騒ぐな! 結界が崩れる!!」
ツルバナ女が慌てて叫んだ。
だが、クワガタバチは振り返らずに、興奮したように笑い声をあげた。
「知らねーよ。壊れたら壊れたでいいじゃねえか。どのみち、この女はもう終わってる!」
そう叫ぶと、市民の逃げ道を塞ぐように、毒針を振りかざし飛び回る。
「きゃあああっ!」
「ミラクルナイト、助けて!!」
──その声が、結界の奥で座り込んでいた奈理子の耳に届いた。
わずかに、ほんのわずかに――
彼女の指先が、震えた。
──叫び声。羽音。逃げ惑う人々の足音。
そのすべてが、奈理子の心にまっすぐ届いた。
(私……なにしてるの……?)
虚ろだった瞳が、ふっと揺れた。
「!!」
ぱちり――
重たいまぶたが持ち上がり、奈理子の視界に飛び込んできたのは、空を裂いて飛び回る、巨大な鋏角と翅を持つ怪物……クワガタバチ。
市民たちが悲鳴を上げ、恐怖に怯え、子どもを抱えて逃げ惑う姿も、すぐ目の前にあった。
「あれが……敵……? わたし……ずっと、夢を見てた……でも……!」
ギュッと、奈理子の指先が力を込める。
「夢なんて見てる場合じゃ、ない!!」
ドンッ!
地面を蹴り、立ち上がった奈理子の胸元が、まばゆく光った。
アイマスク――ミラクルナイトへの変身デバイスだ。奈理子はそれを迷いなく掴み、叫んだ。
「ミラクル・チェンジ!!」
──眩い水色の光が奈理子を包み込む。
ふわりと広がる光粒子の中で、彼女の制服はふわりと弾けて消え、ほんの一瞬、純白のブラとショーツ姿になる奈理子。だが、恥じらう暇もなく、衣装が次々と形成されていく。
「はっ……!」
髪に白いリボンがふわりと現れ、風に踊る。
白いブラウスがその胸をふんわり包み、中心に水色のリボンが浮かぶように結ばれる。
手首から肘までを覆う白のグローブ。
足元には膝までの白いブーツが、光のラインを描きながら現れる。
そして──
「っ……!」
彼女の可憐な白ショーツの上に、水色の光の粒子とともに白いプリーツスカートがふわりと優しく降り立った。
それはまるで、彼女の決意と純真さを象徴するかのような動きだった。
「ミラクルナイト、ここに見参っ!」
光が収束し、ミラクルナイトが一歩踏み出した瞬間、逃げ惑っていた市民たちの目にその姿が映る。
「奈理子、戻ってきた!」
「ミラクルナイトだ!奈理子ちゃん!」
「がんばれ、天使!」
「きゃー!変身バンク可愛すぎる……!」
彼女の白と水色のコスチュームは、今や市民の心を照らす灯台だった。
風に靡くリボン、きらきらと舞う光の粒子。かつての“弱々しくて守られる存在”とは一線を画す、意志のある瞳が上空を睨みつける。
「水都の平和を乱す者は……ミラクルナイトが、許しません!!」
その視線の先にいるのは、空から市民を襲っていたクワガタバチ。
黒く艶めく外殻、ブンブンと唸る翅、鋭く輝く毒針と、大顎。
そのあまりに異様で凶悪な姿に、ツルバナ女も顔を歪めていた。
「くッ……あと一息で奈理子は完全に堕ちたのに……!」
唇を噛み、地面を蔓で叩くツルバナ女。
だが、当のクワガタバチはまるで意に介していなかった。
空中でゆるりと一回転しながら、ミラクルナイトを見下ろし、嗤う。
「ほぉ……やっと来たか、“純白の天使”。」
ぎらりと鈍く光る大顎が、まるで奈理子の細い腰を狙っているように動いた。
「その華奢な体……楽しませてくれよ。弱くて可愛いお前を、容赦なく叩き潰すのが、俺の楽しみなんだよ」
だが、ミラクルナイトは微笑みを浮かべ、静かに一歩踏み出した。
「ふふっ……そう簡単には、やられません!」
その声は、震えていなかった。
「クワガタ男を倒した時は……ミラクル・ハピネス・ホイップだったわね……」
夕暮れの空を背に、白いブーツの足をすりっと滑らせながら、ミラクルナイトは視線を鋭く前に向けた。対峙するは、鈍く黒光りする大顎と猛毒の針を備えた異形の怪人――クワガタバチ。
ミラクル・ハピネス・ホイップ――相手の頭部を太腿で挟んで、フランケンシュタイナーで投げる技だ。
(……でも――)
チラリと横目でクワガタバチの背部を確認した瞬間、嫌な冷や汗が背を這う。
(ダメ……太腿で挟んだら、その隙に針で刺されて終わり……)
戦いに臨む緊張とは裏腹に、ミラクルナイトの表情は冴えていた。
彼女は弱い。でも――実戦経験は、誰よりも豊富だ。
「行くぜ、純白の天使!」
バチバチバチッ!
クワガタバチの羽音が空気を裂き、その姿が忽然と消える。
「速い!」
ミラクルナイトの反応が一瞬、遅れた――
バッ!!
「ああッ!」
すれ違いざま、鋭利な大顎がミラクルナイトのブラウスをざくりと引き裂いた。破れた布の隙間から、純白のブラが覗く。
「なっ……!」
恥ずかしさを振り払う間もなく、ミラクルナイトは地を蹴った。
「えいっ!」
華麗なスピンとともに繰り出された、お得意のハイキック!
水色のスカートが空にひるがえり、キラキラと舞う布の先から、ちらりと白いショーツが覗く。
「きゃああッ奈理子ちゃんの脚が美しすぎるーッ!」
「パンチラ確認!!」
「ファンクラブは全力で記録中です!!」
水都大学奈理子私設ファンクラブ(MNSFC)の会長・成好が、手にした高性能カメラを構えながら絶叫した。後ろではメンバーが横断幕を掲げている。
《がんばれ!ミラクルナイト!白いパンツは希望の旗!》
しかし――
ガンッ!!
「痛ッ!!」
蹴った先にあったのは、ヒラタクワガタ由来の超硬質外殻。その衝撃で、逆に足を痛めてしまったミラクルナイトは、地面に膝をつく。
「ふふふ……白いブラに、白いパンツ……“純白の天使”と呼ばれるだけのことはあるな。だが――」
気が付いた時には、クワガタバチが目前にいた。
「きゃぁぁ〜ッ!!」
その巨大な大顎が、奈理子の細い腰に食い込み、彼女をぐんと宙へ持ち上げる。
「その華奢な腰を……ポッキリ折ってやるぜェ!!」
ブチィッ……!
大顎が締まる音とともに、ミラクルナイトの顔が歪む。
「そう簡単に……やられはしないわ……っ!!」
そのときだった。
ぶわっ!
ミラクルナイトの体が水色の光に包まれた。
「ミラクル・パワー!!」
眩い閃光の中、彼女の体から一瞬だけ異常な力が爆発する。
キラキラと舞う光粒子、まるで氷のような蒼白の輝きが、クワガタバチの大顎を押し広げた。
「ぐおっ!?」
ばちん!
ミラクルナイトは抜け出し、空中で一回転。スカートがひるがえり、今度は一際鮮やかに白いショーツが舞い上がる。
「奈理子ー!パンツ見えたーッ!!」
「やっぱり今日も可愛いよぉ!!」
「純白はパンツの色だけじゃないんだよ!心の色だよ!!」
MNSFCの興奮は頂点に達した。だが、ミラクルナイトは声援に微笑むだけ。
「“純白”は……パンツの色じゃないわ!」
胸を張ってそう言い切ったミラクルナイトに、成好は感涙していた。
「そうだ、奈理子ちゃん!君は強くて可愛い!!」
──劣勢。だが、奈理子の表情には一切の迷いがなかった。
(この太腿にそよぐ風、市民の大声援――これが、私の戦いよ!)
精神攻撃に蝕まれていた心は、いまや完全に吹っ切れていた。
(空中戦……蜂の怪人とは戦ったことないけど、私はあのトンボ男を倒したのよ!)
その瞬間――
ミラクルナイトの背中に、光の羽根――ミラクルウイングが広がった。
「……行くわよ、クワガタバチ!」
彼女の白いブーツが風を蹴り上げ、空へと舞い上がる。
夜の帳が降りかけた空に、報道各社のドローンカメラが何機も飛び交い、事態の異常さを上空から世界へと伝えていた。
「ミラクルナイトが、飛んだ……!?」
「なんだあの怪人は!?」
「く、クワガタ……?でも針があるぞ!? 蜂か!?」
ざわつく市民と、それを囲む報道陣。
白いリボンが風に揺れる。空に舞い上がるミラクルナイトの姿は、まさに“空飛ぶ純白の天使”だった。
「逃がさねぇぞォ!!」
ブウウウウン――!!
鈍く響く羽音とともに、クワガタバチが猛烈な加速で追い上げてきた。
その背にはスズメバチの翅、守るはヒラタクワガタの堅牢な上翅。殺意を纏った鋭利な顎と毒針が、ミラクルナイトを追い詰める。
「えいっ!」
ミラクルナイトは水色の閃光を両手から放ち、シャインブラストを連射。
パスン!パスン!パスン!
光弾を矢のようにクワガタバチを撃ち下ろすが――
「こんなもの、効かんッ!!」
ガン!ガン!ガン!
クワガタバチの漆黒の外殻は、一切の光を受けつけない。
まるで鋼の鎧だ。シャインブラストは拡散され、何のダメージも与えられなかった。
(分かってる……!クワガタにはシャインブラストは効かない。だからこれは牽制――)
ミラクルナイトの表情に緊張と闘志が浮かぶ。
「本命は……こっちよ!」
腕を天に掲げると、彼女の周囲を包むように水色の光が旋回し始める。
「ミラクル・アクアティックラプチャー!!」
ぶわあああああっ!!
ミラクルナイトの体から放たれた水のオーラが空気を巻き込み、大きな水輪を生み出した。
それは、昆虫の翅にとって致命的な“湿り気”をもたらす力。かつて戦ったヘビトンボ男との空中戦で得た経験が、彼女の中で一つの武器として蘇っていた。
「な、なんだこの水は……!」
慌てて旋回し距離を取るクワガタバチ。
だが、ミラクルナイトのアクアティックラプチャーはまるで意思を持つかのようにその動きを追尾する。
「チッ……これでも喰らえッ!!」
バシュッ!バシュッ!バシュッ!
クワガタバチが翅を激しく震わせ、毒針をミラクルナイトに向けて射出してきた。
「うっ……ああッ!!」
鋭い反応で毒針を躱すミラクルナイトだったが、空中で水のオーラを制御しきれず、アクアティックラプチャーは拡散してしまう。
「毒針は刺すだけじゃないぜ……!」
バチュッ!
今度は針の先端から、黄色く濁った毒液が放たれる。
「っ、フェアリー・シールド!!」
ミラクルナイトの掌から水色の光が放たれ、半球状のバリアが展開された。
ガン!ガガガッ!
毒針と毒液がシールドを弾き、火花を散らす。
その瞬間――
「頑張れ、奈理子ちゃーん!!」
「負けるなミラクルナイト!!」
「下から見上げる奈理子のパンツ最高!!」
「白いパンツは平和の証ー!!」
下界の市民たちが叫んでいた。
中でも、ひときわ大きな声で叫ぶのは――もちろん水都大学奈理子私設ファンクラブの会長、成好だ。
「いけぇーッ!“純白の天使”よ!!あの毒虫をやっつけるんだ!!撮影、録画、記録、すべてオン!!奇跡の空中戦を記憶に刻めッ!!」
声援の熱量が、ミラクルナイトを包む風を押し上げるようだった。
しかしその一方で、地上に立つツルバナ女=柚月は、重く黙していた。
「……これじゃ、多くの犠牲を払って、これまで積み重ねてきたことが台無しよ……」
精神の傷を、じわじわと、深く深く抉ってきた。
あの繊細な心を、ここまで追い詰めてきた。あと一歩で奈理子は崩れるはずだったのだ。
それを――あの怪人が……
ツルバナ女の目が、クワガタバチの大きな背に注がれる。
それはもはや“怪人の背”ではない。“壁”だった。巨大で、制御不能な暴力の象徴。
(――まさか、足を引っ張られることになるなんて)
彼女の内心が、静かに苛立ちを募らせていた。
その頃、ミラクルナイトは傷付きながらも、真っ直ぐに空を舞っていた。
「まだよ……私の戦いは、これから……!」
その白いスカートがひらりと翻り、冷たい風に乗って、高く高く飛び上がる――!
「えいっ、えいっ、えいっ!!」
空中を縦横無尽に舞うミラクルナイトの両手から、水色の光弾――ミラクル・シャインブラストが連射される。
パシュッ!パシュッ!パシュッ!
蒼く輝く軌跡が夜空に煌めきを描くが、クワガタバチの漆黒の外殻には弾かれるばかり。
水都の守護神の輝きは、その巨躯の怪人にまったく通用していなかった。
「効かねぇって言ってんだろうがよォ!!」
ブウウウウウン……!
獣じみた声とともに、クワガタバチが高速で旋回する。
「くっ――!」
それでも攻撃の手を緩めないミラクルナイト。
しかしその手元に、鋭く光るものが迫っていた。
ビュッ!
「……っ!?」
かろうじて横に避けたその一撃。
ミラクルナイトの股間を掠めた毒針が、彼女の**スカートの下を裂くように抜けていった。
びりっ――!!
「きゃっ……!」
衝撃でバランスを崩し、ミラクルナイトの身体がよろめく。
「フフフ……隙だらけだぜ、“純白の天使”」
ギュン!
クワガタバチがスズメバチの動きを再現するかのように、空中をジグザグに移動しながら高速で接近してきた。
「うあっ!」
その太い顎がミラクルナイトの脇腹に突き刺さるように打ち込まれ――
ドォン!!
地面へ向かって吹き飛ばされた。
「奈理子ちゃんー!!」
「ミラクルナイト!!」
市民の悲鳴と同時に、ミラクルナイトの細い体が地面に叩きつけられる。
砂埃が舞い、白いスカートがめくれ、ヒーローの尊厳も、痛みと共にさらされていく。
「……まだよ……私、まだ……!」
倒れ込みながらも、ミラクルナイトは拳を握った。
だが、上空のクワガタバチは――止まらない。
「仕上げといこうかァ!!」
再び空高く舞い上がり、無数の毒針を展開。
「毒針乱射・ハチノスブリッツ!!」
ババババババッ!!
無数の毒針が雨のように地表に降り注いだ。
ミラクルナイトは必死に回避するも、スカートやブラウスの布地はさらに裂け、彼女の華奢な体は満身創痍に。
しかし、毒針の猛雨はミラクルナイトだけを狙っていたわけではなかった――
「やめなさいッ、クワガタバチ!結界が崩れる……!!」
叫ぶツルバナ女。
だが――
「がはッ……!」
鋭い毒針の一本が、彼女の肩を貫いた。
「ゆ……づきさん!?」
群衆の中で戦況を見つめる絹絵の絶叫も届かない。
「い……いったぁ……っ……!」
蔦のように身をくねらせながら、肩口を押さえるツルバナ女。
彼女のドレスに毒の黒紫の染みが広がる。
「くッ……なによコレ……私まで狙ったの!?」
「おいおい……“巻き添え注意”って言っただろ? 空中戦だぜぇ? 地上でウロウロしてるお前が悪いんだよォ……ククク……!」
上空から見下ろすクワガタバチの笑い声は、どこまでも冷酷で。
「この怪人……制御不能……」
ツルバナ女の瞳に宿るのは、怒りと恐怖と――焦燥。
彼女の完璧な精神戦略が、怪人の暴走によって土台から崩されつつあった。
その頃、ミラクルナイトは苦痛に歪む身体で、必死に膝をつきながら立ち上がっていた。
(このままじゃ……市民を……守れない……)
傷だらけの体で、彼女は再び空を睨み――その瞳には、再び**“決意”の光**が宿っていた。
「ツルバナ女!!」
ふわりと舞い降りたのは、白くもこもこした繭のようなショールに包まれた、少女のようなシルエットだった。
水色の長髪をおさげに結い、頭には小さな触角。背中には薄紅色の海老の尻尾と、白銀の翅が揺れている。
「……エビカイコ……」
倒れ込んだままのツルバナ女が、目を細めてその姿を見上げる。
九頭の助手・絹絵――彼女が変身したのは、かつて一度だけミラクルナイトたちと戦ったこともある怪人、海老×蚕の合成怪人――エビカイコだった。
「あなた、現場に出ないって言ってたのに……」
「あなたが毒針でやられたので、いても立ってもいられなくて」
モフモフとした体躯が静かにツルバナ女を抱き起こす。
エビカイコの体からはほんのりと甘く柔らかい香りが漂っていた。
「作戦は……失敗ね……」
「柚月さん。ツルバナ女として、あなたは十分戦いました。もう退きましょう。九頭先生も、これ以上の被害は望んでおられないはず」
その言葉に、ツルバナ女は唇を噛む。
「でも……あのミラクルナイトが……まだ……」
だが、そのとき。
――「ヒュウウゥゥン……!」
宙を引き裂く風音と共に、上空を滑空していたクワガタバチが再び降下してきた。
「おい、誰が退けって言ったァ?」
「クワガタバチ……あなたはもう引きなさい!」
「誰に命令してんだ、モフモフ女ァ? オレはまだこいつらと遊び足りねぇんだよ!」
その目はまるで暴走した猛獣。
ツルバナ女とエビカイコを睨みつけたその圧は、同じ怪人とは思えぬほどに凶悪だった。
「言うことを聞きなさい!このままでは――」
「うるせぇ!」
バシッ!
空気が裂けたような音が響く。
クワガタバチの大顎が、地面の瓦礫を一撃で粉砕していた。
その威圧に、エビカイコは身をすくませ、ツルバナ女は呻き声を漏らす。
しかし。
――その瞬間だった。
「……それ以上はさせない……!」
地を蹴って飛び上がったのは、再び立ち上がったミラクルナイトだった。
彼女の周囲には、水色の粒子が舞っていた。
「ミラクル・アクアティックラプチャー!!」
ヒュン……!!
放たれた水のオーラが、弧を描いて空中を貫いた。
「チッ……!」
逃げようとしたクワガタバチの翅が、霧状の水流に濡れ、鈍く光り始める。
――昆虫の翅は、水に弱い。
その事実を、ミラクルナイトは過去の戦いから学んでいた。
「お、おい……マジかよ……!」
翅が重くなり、バランスを崩すクワガタバチ。
それでも、彼はあくまで捨て台詞を残すことで、自身の格を保とうとする。
「チッ……覚えてろよ、“純白の天使”……今度はお前のハートも、へし折ってやるからなァ!」
バッ!!
重くなった翅を無理やり羽ばたかせ、黒い影が空に消えていった。
その背を、ミラクルナイトはただ静かに見送る。
「……ありがとう……ミラクルナイト……」
絹絵――エビカイコがぽつりと呟いた。そして、
「もう十分です、ツルバナ女。ここは退きましょう」
「……ええ……」
負傷したツルバナ女の身体をそっと支えながら、エビカイコはモフモフとした翅を揺らして宙へと舞い上がる。
「ミラクルナイト……また、会いましょう……」
「……ああ……」
空に消えていく二つの怪人の背に、ミラクルナイトはかすかに呟いた。
その顔には、少しだけ、吹っ切れた笑みが戻っていた。
戦場となった大通りに、静寂が戻っていた。
空には薄く夕焼けが残り、騒然としていた群衆のざわめきは、安堵と歓喜のざわめきへと変わっていく。
「ミラクルナイト!ありがとう!」
「俺たちの奈理子ちゃーん!!」
「純白の天使ばんざーい!!」
市民たちの間から次々と歓声が上がる。
水色の粒子を纏ったミラクルナイトは、肩を上下させながらも笑みを浮かべ、手を振って応えた。
そしてその前には、白地に青リボンの横断幕を掲げた一団――
「我らが女神!ミラクルナイト!」
「奈理子ちゃん、世界一可愛いよー!!」
それは、**水都大学奈理子私設ファンクラブ(MNSFC)**だった。
会長・成好は額に汗を浮かべながら、手製の旗をぶんぶん振り続けている。
「おーい、奈理子ちゃーん! こっち向いてー!」
一際大きな声に、ミラクルナイトがちらりと視線を向け、少しだけ恥ずかしそうに手を振る。
その仕草だけで、ファンクラブの男たちは絶叫した。
「うおおおッ! いま俺を見たあああああ!!!」
「一生ついていきます女神様ァ!!」
その瞬間――
「ミラクルナイトさん!! ひとことお願いしますっ!!」
人混みを掻き分けて駆け寄ってきたのは、水都テレビの女性アナウンサーだった。
小型マイクを片手に、勢いそのままにマイクをミラクルナイトに向ける。
「ミラクルナイトさん、本当にお疲れさまでした! あの強敵クワガタバチを撃退した感想を、いまの率直なお気持ちでどうぞ!」
ミラクルナイトは、ズタズタに裂けたブラウスとスカートの裾を気にしながらも、真っ直ぐマイクを見据える。
水色のリボンが揺れ、白いスカートの裾には土埃が残っている。だが、それすら美しい。
「はい……皆さんの声援が、私の力になりました。水都の平和は……絶対に守ってみせます!」
「きゃあああああああああッ!!」
「惚れたァァァ!!」
「奈理子ちゃん、結婚してぇぇぇ!!」
大歓声が、駅前広場を揺らす。
アナウンサーが続ける。
「……ミラクルナイトさん、もしよろしければ……その、アイマスクを取って、奈理子さんの可愛いお顔を、皆さんに見せていただけませんか?」
「奈理子ちゃんの顔、見たーい!!」
「素顔が一番キレイって知ってるんだよ!!」
「お願いミラクルナイトちゃーん!!」
市民たちの合唱が、甘く包み込むように響く。
ミラクルナイトは一瞬、頬を赤らめた。
スカートの裾をぎゅっと握りながら、ちらりとアナウンサーを見る。
「……し、仕方ないですね……」
そっと指を伸ばし、顔の半分を覆っていたアイマスクを外す。
長い睫毛、宝石のように潤んだ瞳、そして笑顔――
そこには、誰もが憧れる**“奈理子ちゃん”**の素顔があった。
「奈理子ちゃあああああん!!!!」
「かわいすぎる!!!」
「守りたい、この笑顔!!!」
MNSFCの成好が両膝を地面につき、感涙のまま叫ぶ。
「見たか……これが俺たちの女神だ……!」
そして起こる、嵐のような**「奈理子コール」**。
「奈理子ちゃん!奈理子ちゃん!」
「奈理子さん!ばんざーい!」
「奈理子〜〜〜ッ!!」
まるでライブ会場のような熱気に包まれながら、ミラクルナイトは笑みを浮かべて一礼する。
「……ありがとう。これからも、声援、よろしくお願いします……!」
水都の空に、拍手と歓声が高らかに響いた――。
穢川研究所・地下研究室。
闇に沈む私室の中央、九頭は革張りの椅子に腰掛け、膝上に置いたタブレットをじっと見つめていた。
映っているのは、水都の空を駆けるミラクルナイトとクワガタバチの激闘。
「ふふふ……やはり、奈理子は……」
画面内、クワガタバチの大顎に腰を挟まれ、悲鳴を上げるミラクルナイトの姿がスローモーションで映る。
「……ピンチに喘ぐときが、一番……可愛い……」
ぽつりと呟く九頭。その指先は何度も再生と巻き戻しを繰り返しながら、
ときにクスクス、ときに恍惚とした笑みを浮かべ続けていた。
そのとき、静かに扉が開く。
「お戻りになりました、先生」
絹絵の声とともに、肩を貸された少女――柚月=ツルバナ女がよろよろと足を引きずって現れた。
その頬にはかすかな傷、腕は包帯に包まれており、まだ顔色も青い。
「……先生……作戦は……失敗しました……」
柚月が小さく口にすると、九頭はタブレットから目を離し、ふわりと柔らかく笑った。
「見ていたよ、全部。クワガタバチの強さ、ミラクルナイトの可愛らしさ、そして……柚月くんの健気さも」
柚月は悔しげに唇を噛む。
「私が、判断を誤ったから……奈理子を、あと一歩で完全に堕とせたのに……!あんな怪人、最初から信用しなければ……!」
九頭はくすくすと笑ったまま、指を組んで口元を隠すように言った。
「いいじゃないか。君はよくやったよ、柚月くん。むしろ、奈理子にとって忘れがたい傷を与えられたじゃないか。記憶に残る痛みというのはね、じわじわと心を蝕むんだよ」
「……ですが……」
柚月の声音が揺れる。悔しさと、情けなさと、敗北感が入り混じっていた。
「だが、まだ奈理子は完全には堕ちていない。むしろ……再び立ち上がった」
そう言って九頭は微笑み、ゆっくりと立ち上がった。
まるで教師が優しく生徒を諭すように、柚月の頭をぽん、と軽く撫でる。
「休もう、柚月くん。今の君には、休息が必要だ。心も体も、すっかり削れてしまったようだしね。ちょうどよい場所がある。鄙比田温泉――静かな山の中で、ミルクの湯にでも浸かって、ゆっくり回復しておいで」
「……鄙比田……?」
「そう。空気もいいし、君の好きな牛乳もある」
柚月は目を伏せたまま、力なく頷いた。
「……はい……」
絹絵が優しく微笑みながら、柚月の背をそっと支える。
「では、出発の準備をいたしますね。お食事は、温泉旅館に着いてから」
九頭は窓辺に歩み寄り、夕闇に沈む水都の街を眺めながら呟いた。
「さて、奈理子……。今度はどんな涙を見せてくれるのか……とても楽しみだよ」
タブレットに再び映るのは、スカートを翻して空を舞うミラクルナイトの姿だった。
(第207話へつづく)
(あとがき)











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