DUGA

ミルキーナイト~胡桃・21歳~☆第1章「蘇る影」

 秋の訪れは鄙野に静かに忍び寄る。街道沿いに並ぶ黒塀の旅館街、その軒先には赤提灯が灯り、濡れた石畳に淡い光を落としていた。細く長い路地を風が抜け、どこか懐かしい木の匂いと湯気が鼻先をくすぐる。佐笠胡桃は、その細道を歩いていた。

 右手には白い紙コップ。その中には、地元産の牛乳が満たされている。熱すぎず、けれど舌に心地よい温もりを伝えるその味は、彼女にとって郷愁そのものだった。

「変わらないな……」

 独り言のように、けれどどこか遠くへ語りかけるように胡桃は呟いた。誰にというわけではない。ただ、幼い頃に生き別れた弟――ライムの面影が、この味にはいつも宿っていた。

 鄙比田温泉大学の三回生。平日は研究棟と学生寮を行き来し、週末にはこうして湯の町を歩く。地味なベージュのニットに、ダークグリーンのスカート。ひと目見ただけでは彼女がかつて“ミルキーナイト”と呼ばれた鄙野の守護者であるとは、誰も思わないだろう。

 あれから五年。あの日、魔界のプリンセス・コマリシャスに囚われ、あの暗い異界に閉じ込められた記憶。今でも、夢の中で腐臭と湿った石の冷たさが蘇る。

 胡桃は立ち止まった。旅館「山茶花」の脇にある観光案内館。その隅に設置されたデジタル展示装置に目を奪われたのだ。そこには『未来メモリアルAI』と銘打たれたコーナーがあり、かつての町民の記録映像が、AIによって再構成されるという。

 無意識のまま、彼女は装置の前に立っていた。

 画面に現れたのは、小さな男の子。七歳ほどだろうか。どこか気難しそうな顔立ち。けれど、視線だけは妙に冷静で、まるで彼女の奥底を見透かすようだった。

『……姉ちゃん?』

 映像の中の少年が口を開いた。

 胡桃の胸が締めつけられた。こんな声だったろうか。いや、違う。けれど、似ている。あの頃、二人で見た川沿いの桜。木の下で交わした、もう戻らない約束。忘れようとして、忘れられなかった記憶。

 だが、その静寂を破るように、町の南側から聞き慣れない音が響いた。

「ピピピピ……キィーン!おっとと、転んじゃったー!」

 奇妙な甲高い声と、跳ねるような音。胡桃は駆けだしていた。反射的に、その異音の元へと。

 温泉街の広場では、観光客が叫び声を上げて逃げ惑っていた。中央にいたのは、奇怪な存在。

「どうもどうも!今夜のお供は鏡猿コケシでぇす!」

 人形のような顔に、サルのような手足。背には割れた鏡を背負い、ピエロのように足を蹴り上げる魔物。それが通りかかるたび、鏡の破片が宙を舞い、光を乱反射させていた。

「くっ……」

 胡桃はバッグを握りしめ、裏通りへと駆け込む。周囲に人影はない。彼女は立ち止まり、目を閉じた。

「ミルクよ……再び私に、力を……」

 淡い茶色と白の光が彼女を包んだ。装いは魔法少女を思わせる華やかさを湛えつつも、露出した腹部やしなやかなラインは、かつての少女が大人になったことをはっきりと語っていた。

「行くよ、鏡猿。今度は、ミルキーナイトが守るんだから!」

 再び、戦いの夜が始まった――。

第2章へつづく)