DUGA

ミラクルナイト☆第191話

水都の夜は、光に溢れている。
高層ビルのLED、観覧車のイルミネーション、街角の巨大モニターには“奈理子のブラ&ショーツ”のCMが音もなく流れていた。

その光の下、駅前広場の片隅。
ベンチに腰掛けた一人の男、多羅尾。

毛先が乱れたボサボサの頭、影のような目。
その視線は、遠くの大型ビジョンに映る奈理子の笑顔に釘付けだった。

「……奈理子……ごめん……俺は、君のことが……まだ……」

爪を噛むようにしてつぶやくその背後に、
ひたり、と何かが影のように近づいてきた。

「……あなた、多羅尾といいますか?」

声をかけたのは、チャイナ服の若い女性。
黒髪をお団子に結い、眼差しは鋭く、口元には微笑み。

「は……誰だよ、あんた……?」

「わたしは、ファンユイ・チュン。カエルの姫アル。……あなた、ミラクルナイトに負けた人ですね?」

その口調には、日本のアニメを見て覚えたような中国訛り。
だが、発せられる言葉は鋭く、刺すようだった。

「……ああ、そうさ。……ミラクルナイトに……奈理子に、ボロボロにされて……俺を導いてくれたトケイソウ女さんまで……!」

「わたしも、兄をミラクルナイトにやられました。……許せないネ。ミラクルナイト。ニセ天使」

ファンユイの瞳が、月明かりにきらりと光った。

「あなた、今はどうしてますか? 働いてるネ?」

「……働けるかよ。履歴書書いたら、すぐバレる。前科者だぞ……誰が雇うんだよ」

「じゃあ、一緒に来るアル」

ファンユイは、懐から取り出したある教団のバッジをそっと見せる。
それは或る或る教団の、C国支部の特製バッジ。カエルの目が怪しく輝くデザイン。

「わたしたち、復讐のために、力を合わせるアル。ミラクルナイト……そしてその仲間たちを、地獄に落とすために」

多羅尾の瞳がゆらぐ。
彼の中で、奈理子への恋心と、ミラクルナイトへの憎悪がせめぎ合っていた。

「……ミラクルナイトが奈理子じゃなかったら、今ごろ、俺……」

「でも、事実ネ。あの天使のような笑顔の裏に、あなたの恩人も、わたしの兄も倒されたネ」

「…………」

ファンユイはベンチに腰を下ろし、横目で多羅尾を見た。

「わたし、あなたみたいな男、嫌いじゃないアル。ちょっとオトメっぽいけど、復讐心は熱いネ。いい素材ヨ」

多羅尾はしばらく黙ったまま空を見上げた。
遠くで打ち上げ花火が小さく光り、音が遅れて届く。

やがて、低く、しわがれた声で言った。

「……ああ……オレも……地獄に落ちてやるよ。あの“天使”と一緒にな」

ファンユイはくすっと笑って、
その肩に手を置いた。

「歓迎するアルよ、多羅尾。あなた、今日から——我が教団の“ゲジゲジの爪”ネ!」

こうして、闇の水都に、静かに新たな悪意が芽を吹いた。


夜の水都公園。
灯りが水面に反射し、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
運河沿いの遊歩道を静かに進むファンユイと多羅尾。
その歩みがふと止まる。

「……アレ、見るアルネ」

ファンユイがすっと屈み込み、橋の下を指差した。

水都大橋の陰。
人気の少ないその空間に、ふたりの若い男女が寄り添っていた。
制服の女の子が、男の子の膝の上に跨っている。
指を絡め、額を寄せ合い、
やがて柔らかく、甘く唇を重ねる。

「……っ!」

多羅尾の喉が、乾いたように鳴る。
目を細めてその姿を見ると、そこには――

「奈理子……っ」

間違いなかった。
橋の下でライムと密やかな時間を過ごしているのは、
テレビや街頭ポスターで“清純可憐なアイドル”として崇められる、あの奈理子だった。座ったライムに奈理子が跨っている。

「好きッ、好きッ、好きぃ〜……♡」

耳をすませば、あの可憐な声が、まるで子猫のようにライムに甘えている。
足首に白いショーツを絡ませながら、彼女は少年にぴったりと身体を寄せ、
全身から愛を放っていた。
制服スカートで隠れているが、その中で二人は明らかに繋がっている

ファンユイがぼそりとつぶやく。

「アレが、この街の“奇跡の守護天使”アルよ。……フフ、裏で男に股乗りネ。清純どころか、情熱の煮込みネ」

多羅尾の顔が歪む。
奈理子への憧れ、ミラクルナイトへの複雑な想い、
すべてが粉々に砕け、黒くどろどろとしたものへと変わっていく。

「……こんなの……違う……!」

彼の手が震える。
目は憎悪に染まり、心に小さな決意の刃が突き刺さった。

「……あれが……オレの……理想だった奈理子なのか?」

「でも、あなた見たアルネ。
“真実の姿”を知って、まだ見て見ぬふりする男、わたし、信用しないヨ」

ファンユイの言葉は鋭い。
けれど、多羅尾にはもはや、迷いはなかった。

「奈理子は……オレの恩人の仇だ。
ミラクルナイトは、俺の夢を壊した……
だったら——俺が壊し返してやる!」

橋の下で、幸せそうに見つめ合う奈理子とライムの姿。
それを見つめるふたりの怪人予備軍の影。
静かに、確実に、闇の中で復讐の歯車が動き始めていた。

——そして、夜の水都に、新たな嵐が近づいていた。


舞台は鄙野の外れ、人気のない廃業した温泉旅館の一室。
すでに或る或る教団の隠れ拠点として使われているその場所に、多羅尾の姿があった。
壁のポスターは、全て「奈理子のブラ&ショーツ」ポスター。
誰が貼ったかなど言うまでもない。

ファンユイはちゃぶ台の上に広げられた地図を、パタパタと紙扇で叩いていた。

「ミラクルナイト狙うなら、絶対ソロのとき狙うヨ。あの二人——風のオバサンと飴玉娘——出てくるとめんどくさいネ」

「……ああ、セイクリッドウインドとドリームキャンディ。アイツらに邪魔されたら、奈理子を“正しく罰する”ことができなくなる」

多羅尾の語気に、ファンユイは片眉を上げた。

「相変わらずネ、恋と恨みの混合スープ。あなた、ほんとに女の子みたいアルね」

「うるさい……だが、オレの狙いは奈理子だけ。純白を装った“偽りの天使”に、罰を与える」

ファンユイはくつくつと喉を鳴らし、ひとつの案を出した。

「——じゃあ、わたし、先に“他の二人”の注意引きつけるアル」

「……何?」

ファンユイがにやりと笑う。

「ドリームキャンディはミラクルナイトの弟くんとつながってるネ?じゃあ、そっちに“誘導作戦”仕掛ければ、飴玉娘、そっち向かうネ」

「つまり……隆を囮にするのか?」

「そうアル。女の子って恋するとね、周り見えなくなるネ。ミラクルナイトと違って、あの子の感情はまだガキネ」

多羅尾はその非道な提案にも頷いた。
目的は一つ、奈理子の排除。

「……で、セイクリッドウインドの方は?」

「風のオバサンさんは、神社にいれば簡単に動かないネ。わたし、神社に“祈祷のお願い”出しておくアル。怪しげな祈祷依頼。オカルト好きな人間からの匿名依頼ネ。巫女だから無下にできないアルヨ」

「なるほど……どっちも的を絞って引き離す……」

ファンユイはちゃぶ台に突っ伏して、ニヤリと目を細めた。

「その間に、あなたがミラクルナイトとタイマン勝負。夢のワン・オン・ワン……ネ♡」

多羅尾は地図の中の「水都タワー南展望台」に指を置いた。

「……あそこだ。最近のCMで奈理子が出てた場所。人目もあるが、高所で逃げ道は少ない。うまく行けば……」

「じゃあ決まりネ。わたし、デコイ役、得意アルヨ。今回はしっかり“外堀”埋めるヨ」

月明かりの中、作戦は静かに動き出した。

その矛先はただ一人。
清純可憐なる、水都の守護神ミラクルナイト=野宮奈理子

だが彼女の運命が、この日を境にどう揺らぐか、
誰もまだ、知らなかった。


時は放課後。
水都の街はいつも通り穏やかだったが、その裏で静かに“罠”が仕掛けられつつあった。

場所は、水都中学の昇降口前。
部活を終え、帰宅の準備をする生徒たちの中に、一人の小柄な少女がいた。

ドリームキャンディ=寧々
制服姿のまま、スマートフォンを確認していた彼女の元に、一本のメールが届く。

件名:至急対応要請【隆くんが危ない!?】
本文:商店街裏の空き倉庫にて、隆くんらしき中学生が不審者と口論しているのを見ました。
至急、様子を見に来てください。詳細な位置情報を添付します。

「えっ……隆が!?」

幼馴染のように育った奈理子の弟・
そして今、彼に想いを寄せる寧々にとって、この情報は見逃せなかった。

「……奈理子さんに連絡するのもいいけど……今は私が……!」

メールにはGPS位置情報まで添えられていた。
寧々はリュックを背負い直し、小走りで校門を飛び出していった。

——その様子を、遠くの建物の屋上から眺めていたのは、
チャイナ服姿の少女、ファンユイ・チュンだった。

「ふふふ……ちょろいネ。中学生、恋するとすーぐ走るアルね。いつも隆と一緒にいるあの子がドリームキャンディってことはお見通しアルヨ」

彼女は小さな通信機を取り出し、低くつぶやく。

「ドリームキャンディ、排除完了。次、巫女ネ」

◇ ◇ ◇

水都神社の社務所。
夕暮れの柔らかな光が差し込む中、巫女・凜=セイクリッドウインドは、
机に向かって書類を整理していた。

そこへ、神社宛の封書が届いた。
消印は水都市内、差出人はなし。

「また匿名の祈祷依頼……?」

封を開けると、簡素な文面と共に不気味な印が押された紙が入っていた。

『この町に魔の気配あり。天の巫女よ、
水都郊外・榊の森にて祓いを行わねば、
街は呪いに包まれん。』

そして添えられていたのは、
かつて“邪霊騒ぎ”が起こったことで知られる、古い鳥居の写真。

「……あの場所、確かに妙な気配があるけど……」

凜は立ち上がり、鉄扇“ガストファング”をそっと腰に挿した。

「奈理子や寧々が危険に晒される前に……。私が祓っておくべきね」

そう言って、彼女は社務所を後にした。

◇ ◇ ◇

再び、ファンユイ。

ファンユイは、情報端末を確認しながら口角を上げる。

「巫女は神事、中学生は恋路……どっちもミラクルナイトから離れたネ。
あとは……あなたの舞台、整ったヨ、多羅尾」

影の中で立ち上がる黒い男の姿。
その目には、歪んだ決意が宿っていた。

「ありがとう、カエル女。……次はオレの番だ」

そして今宵、ミラクルナイト=奈理子は、
ただ一人、罠の中心へと歩み出す。


9月の水都は、夕暮れがやや涼しくなっていた。
街角の大型モニターには、今日も「奈理子のブラ&ショーツ」CMが流れ、
制服姿で笑う奈理子が“街の象徴”として親しまれていた。

その奈理子の元に、ある一通の封書が届く。
ミコールを通じての“新CMの打ち合わせ”という名目。
宛名は手書きで丁寧に、「野宮奈理子様」。

『CM演出イメージの視察をお願いしたい。
ご多忙のところ恐縮ですが、本日午後5時、
水都タワー南展望台にお越しください。』

「……今日は撮影予定なかったけど……。まあ、水都タワーなら近いし」

制服姿のまま、奈理子はバッグに変身用のアイマスクを忍ばせて、
ミコールの広報車で水都タワーへ向かった。

◇ ◇ ◇

水都タワー南展望台。
ガラス張りの空間には、日が傾き、琥珀色の光が差し込んでいた。

「……あれ、誰もいない……?」

見回してみても、スタッフの姿はない。
タワーの案内係すら見当たらない。不思議に思いながらも、奈理子は展望フロアの中央へ。

「……来てくれたんだね、奈理子」

背後から、低く、どこか懐かしい声が響いた。

「……えっ?」

振り返ると、エレベーターホールの影から現れたのは——
長身で、やや痩せた男。ボサついた髪に、落ちくぼんだ目。

「……多羅尾さん……?」

「覚えててくれて、うれしいよ」

「うん……でも、どうして……あなた、確か——」

奈理子の顔に、わずかな困惑が浮かぶ。
彼のことは覚えている。
かつてミラクルナイトとして対峙した、“ゲジゲジ男”の正体
街では事件後の裁判も報道され、服役したことも知られていた。

「まさか……この打ち合わせ、あなたが?」

「そう。いや、騙すようなことしてごめんね。でも、どうしても、話したかったんだ」

「話す……?」

多羅尾は一歩、ゆっくりと踏み出した。
奈理子はバッグに手を伸ばそうとしたが、
その仕草を見て、多羅尾は手を軽く広げて制した。

「まだ、変身しないで。今日はただ、君と“奈理子として”話がしたいんだ。
戦う前に、ひとつだけ確認したくてね」

「……なにを?」

その問いに、彼の目が細くなった。

「——君は、“清純可憐な天使”なんかじゃない。
この街の人たちが、君を偶像として見上げてるけど、
でも、本当の君は……もっと汚れてて、もっと……人間的だろ?」

「……っ!」

奈理子の胸がざわめいた。
彼が何を言っているのか、すぐに察した。

「見たんだよ。運河の下で——君と、あの少年」

「……!」

その言葉が突き刺さる。

「君がどんな表情をしていたか……どんな声を出していたか……!
あれが、この街で一番愛されてる女の“本性”なんだって、ようやく気づけた」

「……それがどうしたの?」

奈理子は震える声で返した。

「わたしは人間よ。恋もするし、泣きもする。……だけど、それが何?
あなたに責められる筋合いはない」

多羅尾の顔が一瞬、歪んだ。

「責めてるんじゃない。ただ……見たかっただけなんだ。
君の、本当の姿を」

彼は胸元の何かに手を当てた。
奈理子は、一歩、後ずさる。

「多羅尾くん……あなた、また——」

「……もう、君に“騙される”のは、終わりにしたい」

その瞳は、かつての憧れを殺し、憎しみに染まりつつあった。

「だから、次に会うときは——君の“仮面”を剥がしに行く」

風が吹いた。
タワーの展望窓が、静かに軋む音を立てた。

奈理子の手は、バッグの中のアイマスクに触れていた。
だが彼女は、まだ変身しなかった。

「多羅尾さん……。あなたがそう思うなら、わたしは……
ミラクルナイトとして、あなたと向き合う」

二人の間に、もう言葉はなかった。

夕陽が沈む――
その瞬間、決戦の予兆が、水都に静かに鳴り響いていた。


水都タワー南展望台に、静寂が戻っていた。

夕陽が沈み、ガラス張りの床に紫色の影が落ちている。
その中で、奈理子はゆっくりとアイマスクを取り出した。

「あなたが望むなら……ミラクルナイトとして、戦うわ。多羅尾さん」

「そう。それが聞きたかった。ようやく本音で向き合えるね、奈理子」

多羅尾の口元が歪み、次の瞬間――その肉体がぐにゃりと溶けた。

「う、うあああああああああああッ!!!」

乾いた体に奔流のような闇のエネルギーが注ぎ込まれていく。
皮膚が黒く変色し、背中から大量の脚部が飛び出す。
顔面は節足動物の甲殻に覆われ、触覚のような髪が逆立つ。

「ゲジゲジ男……再・誕生ッ!!!」

ビキビキと音を立てながら変身を終えた怪人が、紫色の甲殻を打ち鳴らす。
かつての“奈理子ファン”の姿は、もうなかった。

奈理子は、静かにアイマスクを目にあてる。
白と水色の光が舞い上がり、制服姿は一瞬にして変身ヒロインへと転じた。

「ミラクルナイト、参上――!あのときの私とは違うわ。
水都の平和を乱す者は、この私が許さないッ!」

二人の間に火花が散った。

◇ ◇ ◇

「行くよ……ミラクルシャイン・ブラスト!」

光弾を放ちながら距離をとるミラクルナイト。
その慎重さを、ゲジゲジ男は読み切っていた。

「フン……技の癖、何一つ変わっちゃいないッ!」

ゲジゲジ男は足元の床を削るほどの猛ダッシュで突っ込んでくる。
無数の脚で絡みつき、身動きを封じようと狙っている!

「くっ……この!」

ミラクルナイトは華麗に回転しながらジャンプ。
だが、そのスカートの中――ミコール製「奈理子のショーツ」が一瞬見えると、

「フゥッハハハハ!!やっぱりそれが目的だな、お前はッ!」

「うるさいわねぇぇッ!!」

跳ねたミラクルナイトの膝蹴りが、ゲジゲジ男の顔面に炸裂!
だが甲殻に守られた頭部には、あまり効いていない。

「昔とは違う。オレは、トケイソウ女のためにも……今度こそ君を“純白”ごと叩き潰す!!」

「……だったら、こっちも本気でいく!」

体勢を立て直し、ミラクルナイトは両手を掲げる。
水色の光が集まり始めた。

「出たな……お前の決め技! だが発動までに時間がかかるんだよ!」

ゲジゲジ男は猛然と突進。長い腕が、ミラクルナイトのコスチュームを一枚一枚剝いでいく
床のガラスがヒビ割れ、展望台に風圧が吹き荒れる。

だが、その中で舞う純白下着姿のミラクルナイトの姿は、凜として美しかった。

「リボンストライク――ッ!!」

放たれた水色の光が、リボン状になってゲジゲジ男の体に巻きつく。
脚が、胴が、触覚が――すべて美しい光の帯に縛られていく。

「ぐあっ……や、やめろ!まだ終わってな――ッ!!」

最後の言葉を叫ぶ間もなく、ゲジゲジ男の身体はまばゆい光に包まれ、
粉雪のように崩れて消えていった。

◇ ◇ ◇

静寂が戻った水都タワー。

ミラクルナイトは、傷だらけの床を一歩一歩、踏みしめながら立っていた。
その顔には、哀しみと決意が入り混じっている。

「……多羅尾さん……あなたの想いは、ちゃんと受け止めたわ」

でも私は、もう振り向かない。

風が吹いた。

水都の空は、もう夜だった。


「……変身、解除」

ミラクルナイトの姿が、光とともに霧散していく。
黒髪を飾るリボン、グローブとブーツが消え、代わりにセーラー服のスカートが風に揺れた。

制服に戻った奈理子は、展望ガラスにもたれかかりながら、
地上の光景を見下ろしていた。

水都の夜景はいつも通り美しくて、
まるでさっきまでここで人が一人、塵になって消えたことなんて、
なにもなかったかのようだった。

「……やっぱり、私には“ヒロイン”なんて、似合わないのかもね」

誰にも聞かせない独り言。
だけど口に出さなければ、心が壊れてしまいそうだった。

多羅尾くんはかつて、自分のファンだった。
キラキラした目で「応援してます」と言ってくれた、普通の人だったと思う。

それが、いつしか壊れてしまった。

「壊してしまったのは……私、なのかな」

自分が“ミラクルナイト”である限り、
誰かに憧れられ、誰かの希望になり、
でも、誰かの嫉妬や執着も生んでしまう。

“清純可憐な守護天使”なんて呼ばれて、
笑って手を振り続けるアイドルのように。
本当の私を誰も知らない。誰にも知られちゃいけない。

「……ライムだけ、なのにね……」

ふと呟いたその名前。
たった一人、自分の弱さも、ダメなところも見てくれる男の子。

「でも……私があの子を好きになることすら、
きっと間違ってるって……誰かに言われちゃうんだろうな」

奈理子はそっと、自分の胸に手を当てた。
痛みが、あった。
だけどそれでも、前を向かなきゃいけない。

それが“ヒロイン”の、宿命だから。

タワーのガラスに映る自分の顔に、少しだけ笑みを作って、
奈理子は鞄を取り直した。

「……帰ろう。明日も“かわいい”でいなきゃ」

少女は、そっと歩き出した。
誰にも涙を見せずに。


ネオンが滲む水都の黄昏。
銀星通りに足を踏み入れた瞬間、制服姿の奈理子はほんの少し、背筋を伸ばした。
誰かに見られている気がしたのだ。もちろん、それは日常。

「……また増えてる」

電柱に張られた自分のポスター。
『ミコールジュニア・新商品 “奈理子のブラ&ショーツ" 絶賛発売中!』
微笑む自分の顔が街の灯りの中に浮かび、
奈理子はわざと視線をそらすように早足で歩く。

裏通りのブティック、その奥の小さなカフェ。
制服姿で入るには少し背伸びなその場所は、奈理子の“秘密の居場所”。

「いらっしゃい、奈理子」

カフェ「Veludo」の香丸が、紅茶の香りとともに迎える。
香丸がここでバイトしていることはライムから聞いた。
カウンターに腰掛けると、カップにはいつもの――香丸が作ってくれた特性メロンジュース。

「今日もお疲れ様。CM見たよ。あの下着、売れてるみたいじゃない?」

「……あれはお仕事。可愛い女の子のためになるなら、ってだけ」

「でも大変だろ。人の目って、時に毒だ」

「……分かってます」

そう、アイドルなんかじゃない。
けれどこの街の“守護神”を名乗る以上、
どんな視線も、どんな好奇の囁きも、受け止める覚悟はある。

でも――

(誰にも言ってないだけで、私だって恋をするし、誰かを見つめる夜もある。
そして…香丸さんにもう一度、抱かれたいと思っている私もいる)

スマホの画面。通知は閉じてる。
それでも、ライムからの未読メッセージが光ってるのが分かった。

『屋上で、待ってる』

“屋上”――ライムとふたりの秘密の場所。

そっと立ち上がる。もっとメロンジュースを味わいたいけれど、
奈理子の心にはもう別の温度が灯っていた。

「香丸さん、ごちそうさま」

「おう。奈理子は、今日もかわいいよ。けど……無理はすんな」

「うん、ありがとう」

制服のまま夜の街に溶ける少女。
街の視線は甘くも毒。
だけどその中を歩く奈理子の瞳は、誰より強く、誰より少女だった。

街角に響く、誰かの噂。
「奈理子、見た?」
「あの子、今度は誰といたの?」

でも奈理子は振り向かない。

“噂は風。信じるのは、自分だけ。”

少女は銀星通りの雑居ビルの階段を駆け上がる。
それは“ミラクルナイト”とは違う、ひとりの恋する女の子としての一歩だった。

――Gossipは、誰かを惑わせる魔法。
だけど今夜、奈理子の心はまっすぐに、あの屋上へ。


水都女学院の1年生、野宮奈理子。
人々の憧れ、“ミラクルナイト”として水都を守る彼女は、
放課後になると、制服の襟を握りしめる癖がある。

(……私、ちゃんと強くなれてる?)

ライムの前では、ただの女の子でいたい。
でも、変身してしまえば、誰よりも強く、優雅で、可憐な“理想”を演じなければならない。

「ねえ、奈理子。最近、ちょっと変わったよね?」

放課後、教室の窓辺ですみれが囁くように言った。
菜々美が興味なさそうに外を見ていたその瞬間、
奈理子の心は一瞬、ひりついた。

(“変わった”って、どんな意味?
 あの下着CMのこと? それとも、ライムとのことが……)

頭を振ってみても、心の中のざわめきは消えない。

誰も知らない。奈理子がCM撮影の前夜、
「この身体じゃ、ダメかな」と鏡の前で何度も何度もブラをつけ直していたこと。

着けたのは「奈理子のブラ」の試作品。
だけど──鏡の中にいたのは、少女らしさの中に何かが足りないと感じる、ひとりの不安な女の子だった。

(……ライムは、どう思ってるんだろう)

制服のポケットに忍ばせた彼との小さなチェキ。
あの日、屋上で照れ笑いしながら撮った一枚。
笑ってるけど、どこかぎこちない自分の顔が映っている。

(本当の私は、強くなんかないのに……)

街に貼られたポスターでは、奈理子は笑っている。
でもその笑顔は「誰かに笑ってほしい」って願いから生まれた仮面。

風が吹いた。銀星通りの夜。
遠くにライムが待っている。

(会いたい。でも、会うのが怖い。
 この不安がバレたら、幻滅されちゃうかも……)

「……だけど、嘘はもっとイヤ」

呟いて、立ち上がる。
水色のスカートのすそが風に揺れる。

奈理子は、自分の胸に手を当てた。
ちいさく、でも確かに鼓動するそこには、
“ミラクルナイト”ではない、ひとりの乙女の想いがあった。

「私、奈理子として、ライムに会いに行く」

ミラクルナイトでも、CMモデルでもない。
ただの奈理子。恋をして、不安で、でもちゃんと歩いていたい少女として。

今、セーラー服のスカーフを整えるその指先は、ほんの少し震えていたけれど──
奈理子は、きっと世界で一番綺麗だった。

第192話へつづく)