DUGA

ミルキーナイト~胡桃・21歳~☆第15章「夜風、熱しやすく冷めやすく」

 鄙比田温泉郷。  古びた木造旅館が軒を連ねるその地で、一軒だけ小洒落た宿があった。  「つづれ湯本亭」。明治の面影を残す数寄屋造りの外観とは裏腹に、館内は和モダンの空気に包まれている。

 胡桃はその玄関に、ぽつんと立っていた。

 「いらっしゃい、お嬢さん。珍しいねえ、こんな時間に」

 番頭のような恰好をした若い男が、扇子をぱたぱたさせながら現れた。  年は二十代後半。髪は無造作に後ろで結び、目元に色気が漂う。

 「……あの、泊まりじゃなくて。ただ、歩いてて……」

 「はは、そういうの大歓迎。風が気持ちいいし、縁側にでも座ってく?」

 誘われるまま、胡桃は旅館の奥の縁側に通された。  夜風が湯煙と混じり合い、どこか幻のような匂いがした。

 「俺はレイジっていうんだ。まぁ、若旦那だよ」

 「……胡桃。佐笠胡桃」

 「胡桃ちゃんか。いい名前だね。……ちょっと、大人の顔してる」

 レイジの声は、まるで甘く熟れた果物のようだった。

 胡桃は、笑ってしまった。  でもその笑いは、どこか苦かった。

 「……なんか最近、うまくいかなくて」

 「そりゃあ、人生ってのは、そういうもんさ。頑張る女の子ほど、脆くなる夜がある」

 その言葉が、胡桃の心に染みた。  彼は、何も知らない。だけど、全部知ってるような気がする。

 「頑張るの、疲れちゃったんだよね」

 「じゃあ、頑張らなくていい。少なくとも、ここにいる間は」

 レイジの指が、胡桃の指にふれた。  その手の温かさに、胡桃の胸の奥が溶けたようになった。

 * * *

 翌朝、胡桃が訓練場に姿を見せたのは予定より一時間以上遅れてのことだった。

 「おっせぇぞ、胡桃!」

 プリティ・ストーム──カスミが仁王立ちで睨みつけていた。

 「……ごめん、ちょっと寝坊しちゃって」

 「……あのな、あたしたちが何と戦ってるか、わかってんのか?」

 胡桃は、視線を逸らした。

 「……なんか、そういうの、疲れたっていうか」

 「は?」

 カスミの顔が、見る間に強張った。

 「……まさか、また“男”か?」

 胡桃は答えなかった。  それが、すべての答えだった。

 「……ふざけんなよ。あんた、この前やっと立ち直ったばっかだろ?」

 「でも、あの人は優しかったの。私のこと、女の子として見てくれたの」

 「そりゃそうだろ。そういう奴は、優しくするのが仕事なんだよ」

 胡桃の目が揺れた。

 「……なんで、そんな言い方……」

 「こっちは、あんたと一緒に命張ってんだよ!」

 怒鳴る声が、鄙野の空に響いた。  風が、張り詰めた空気を切り裂くように吹いた。

 「……ごめん」

 胡桃はそれだけを言い残し、訓練場を去った。  その背中が、どこか小さく見えた。

 カスミは拳を握ったまま、その場を動けなかった。

 (私は……間違ってない。だけど、なんでこんなに、苦しいんだよ)

 ふたりの距離は、静かに、確かに、裂けはじめていた。

第16章へつづく)