DUGA

ミルキーナイト~胡桃・21歳~☆第28章「粘液の序曲、孤独なへそ」

 鄙野の朝は、霧と鳥の鳴き声に包まれていた。  通学路を行き交う高校生たちの笑い声。商店街のシャッターが次々に上がり、パン屋からは焼きたての香りが流れてくる。

 だが、その平穏の中に、ひとつだけ異質な足音があった。

 ぬちゃ……ぬちゃ……ぬる……

 コンクリの上を這いずる、粘液混じりの奇妙な気配。

 ナメクジロー将軍は、カフェの裏路地にひっそりと姿を現していた。

 「ふむ、今日の湿度……へそに最適……」

 細長い舌を這わせるように伸ばし、空気の密度を測る。

 街角に掲げられたミルキーナイトの応援ポスターを見上げ、目を細めた。

 「心を折る。羞恥を与える。そのうえで……粘液まみれに……」

 粘液の香気が、すでに街の風に紛れ込み始めていた。

 * * *

 そのころ胡桃──佐笠胡桃は、大学のゼミ室でプリントの整理をしていた。

 「今日は静かだな……カスミもいないし」

 ふと時計を見ると、まだ講義までには余裕があった。

 「コンビニでも行ってこようかな」

 薄手のカーディガンを羽織り、鞄を抱えて校舎を出る。

 小道を抜けた先にある小さな広場に差しかかったとき、異変が起きた。

 ──ぬちゃり。

 足が、濡れている。

 「……雨?」

 見上げた空は快晴。

 足元に広がっていたのは、見覚えのある銀色の粘液だった。

 「まさか……!」

 「まさか、ではありません。我が麗しのミルキーナイト……いや、佐笠胡桃さん」

 背後から、あのぬめる声。

 「ナメクジロー……っ!」

 彼女はとっさに変身アイテムに手を伸ばす。

 「ミルキィィィィ・アップッ!!」

 白と茶色の光が放たれ、へそ出しコスチュームの守護神が姿を現す。

 だが、ナメクジローはその変身すら楽しむように手を叩いた。

 「やはり素晴らしい……この完璧なライン、布の張り、露出の黄金比。もはや文化財保護対象です」

 「なにをしに来たの……!」

 「答えは一つ……君のへそと太腿を、完全に粘液で包むために」

 その言葉と共に、ナメクジローの背中から触手が数本、粘液を撒き散らしながら飛び出した。

 「くっ……来るなら、受けて立つ!!」

 広場の石畳が濡れ、陽光を反射して滑る。

 ──鄙野に再び、ぬるぬるの戦いの幕が上がった。

 * * *

 その頃、水都神社。

 石段を駆け上がるカスミの前に、巫女装束を翻しながら現れたのは、風間凜だった。

 「やっほ、現場女子。わざわざ来るなんて、珍しいじゃん?」

 「質問がある。……なぜ、魔物は胡桃を狙う?」

 凜はきょとんとし、少し考える素振りを見せてから言った。

 「えーっとね、あいつら──“可愛い女の子をいじめるのが好き”だから、じゃない?」

 「……は?」

 あまりにもくだらない答えに、カスミは絶句する。

 「いや、マジで。ミルキーナイトってさ、無防備なコスチュームで頑張って戦ってるじゃん? そりゃもう、魔物からしたら最高のターゲットよ」

 カスミは何も言わず、肩をすくめて踵を返した。

 「くだらなすぎて、こっちの血が引いたわ。帰る」

 「おーい、伝説の巫女様に敬意は! ……ま、気をつけてねー!」

 * * *

 鄙野に戻ったカスミが目にしたのは、想像を超える光景だった。

 「や、やめて……っ……こんなの……!」

 ミルキーナイト──佐笠胡桃の声が震える。

 溶けかけたコスチュームの端から、粘液が肌にぬめりと這い寄る。

 ぬちゃ……ぬちゃ……ぬる……

 「美しい……恥じらい、抵抗、そして無力。そのすべてが、至高の味わい」

 コンクリの上を這いずる、粘液混じりの奇妙な気配ナメクジロー将軍の触手が、ゆっくりと胡桃の背中に巻きついていく。

 「ううっ……なんで……私、こんな目に……」

 「ふむ、今日の湿度……へそに最適……なぜ、ですって? 君が、あまりにも“可愛い”からだ。ヒロインとして、弱く、儚く、輝いているから」

 細長い舌を這わせるように伸ばし、空気の密度を測る。

 街角に掲げられたミルキーナイトの応援ポスターを見上げ、目を細めた。

 「私なんか……ヒロイン失格だよ……っ……何度も負けて、こんなにみっともなくて……」

 「心を折る。羞恥を与える。そのうえで……粘液まみれに……」

 涙混じりに呟く彼女。

 粘液が太腿をつたうたび、羞恥と無力感が心を浸していく。

 粘液の香気が、すでに街の風に紛れ込み始めていた。

 「誰も……来ない……カスミも……私、また……ひとりで……」

  「この孤独のなかで、羞恥に溺れるがいい……それこそが、芸術だ」

 * * *

 「──胡桃、立て!!」

 異変が起き凜とした声が、脳裏に響いた。

 「──胡桃っ!!」

 広場の中心。  粘液で衣装の布地をほとんど溶かされたミルキーナイトが、地面に膝をつき、ナメクジローの触手に絡め取られていた。

 「やめ……やめて……っ……そこ、だめ……!」

 「へそも、太腿も、粘液の光沢に包まれてこそ……ああ、至福……」

 ナメクジローの舌が、胡桃の腹部を這い始める。

 「ちょっと待てコラーーーーーッ!!!」

 その声と共に風が唸り、プリティ・ストームが空から蹴り込んだ。

 「……カスミ……」

 「おせーんだよ、ミルキーナイト!! 何されてんだバカヤロウ!!」

 「“あんたは負けたって、立ち上がる。それがヒロインってもんでしょ”」

 粘液の戦いは、第二ラウンドに突入した。

 「……寧々……」

 「“私たちが見てるのは、あんたが頑張ってる背中なんだから”」

 「……凜ちゃん……っ」

 粘液の中で、胡桃の瞳に再び光が宿る。

 「私は……佐笠胡桃……! ミルキーナイト……!!」

 「ほう……まだ、折れないとは……」

 「ヒロインは、濡れても、倒れても、ここで終わったりしない!!」

 彼女の手が、粘液を払いのけるように強く握られた。

 ──戦意、回復。

 ナメクジローの粘液地獄、ここに抗いの狼煙があがる──!

 「くっ、地面が滑る……これじゃ踏み込めない……!」

 「足場を気にしてるようじゃ戦えねぇ、ミルキーナイト!!」

 プリティ・ストームが大きく腕を振りかぶると、暴風のような竜巻が足元の粘液を巻き上げた。

 「“風圧洗浄(テンペスト・ジェット)”!!」

 広場に粘液が飛び散り、一瞬だけ足場が露出する。

 「今だ胡桃!! 思い切りぶちかませッ!!」

 「うんっ!!」

 跳ね上がるように飛び出すミルキーナイト。  粘液で乱れたコスチュームもそのままに、彼女は風の軌道をなぞるように回転する。

 「──ミルキー・クライマックススピンキック!!」

 粘液の膜を突き破り、回転蹴りがナメクジローの胴に炸裂する!

 「ぐふっ……っ、これぞ、芸術……」

 ナメクジローは粘液の波に飲まれながら、静かに倒れた。

 ──戦いは、終わった。

 ふたりのヒロインが、夕陽に濡れた広場に並び立つ。

 「……ありがと、カスミ」

 「礼はいい。今度は、あたしが助けられたってことにしとけ」

 「ううん。……ふたりで、勝ったんだよ」

 風が、粘液を洗い流すように吹き抜けた。

 鄙野に、ふたたび静かな空気が戻っていた。